777年前に招待状を出したモンゴルを、ローマ教皇が訪問する本当の狙い
8月31日からモンゴルを訪問する教皇フランシスコ(8月25日、バチカン)Remo CasilliーREUTERS
<ローマ教皇フランシスコが8月31日からモンゴルを訪問する。777年前に時のハーンが教皇あてに出した招待状に応えた......のではないが、現在の教皇があえてカトリック教徒1500人のモンゴルを訪れるのには理由がある>
「777年前に招待状を出したのに、ようやく来てくれることになったか」
モンゴル国で今、流行っているジョークだ。ローマ教皇フランシスコが8月31日から9月4日まで、一国の訪問としては異例と言ってもいい長さでモンゴル国を訪れる。これは、法皇を待つ現在の同国国民の心情を現わした言葉だ。
モンゴル帝国期からの交流
モンゴルとローマ教皇を頂点とするキリスト教世界との付き合いは長い。1245年、教皇インノケンティウス四世はリヨンに公会議を招集し、東方から出現した「タルタル」ことモンゴル軍の脅威を前に、西洋側の対応について話し合った。キリスト教世界は当初、はるか東に存在するキリスト教国の国王「プレスター・ジョン」が強力な軍隊を派遣し、イスラーム教徒を攻撃している、との噂に接していた。脅威と見なすイスラーム教徒を攻めている以上は、友軍のはずだと信じていた。ところが、東欧世界が相次いでモンゴルによって陥落し、キエフとルーシ(ロシア)もその軍門に下ったと知るや、もはや脅威は現実と化した、と認識を改めた。
教皇の使節団は次から次へとモンゴル高原を目指した。その一人、プラノ・カルピニ修道士(1182-1252)は1245年暮れに出発し、翌年早春にキエフを経由して東方へ走った。7月22日にモンゴル高原中央部のハラ・ホリムに到着し、時の大ハーン、グユクの即位の礼を見る幸運に恵まれた。グユクはチンギス・ハーンの孫にあたる。ハラ・ホリムは当時、名実共に世界の中心で、メトロポリスの様相を呈し、繁栄の頂点にあった。キリスト教世界への進攻を中止し、罪を犯さないようとの趣旨の教皇の書簡をカルピニはグユク・ハーンに渡した。
ハラ・ホリムにはネストリウス派の信者が多く、教会も建ち、アルメニア製のオルガンが演奏され、パリ出身の職人が宮廷で活躍していた事実にカルピニら一行は驚かされる。彼らはネストリウス派信者たちをカトリックに改宗させたい気持ちはあるものの、口にする勇気はなかった。
すっかり寒くなった11月11日、ネストリウス教徒である大ハーンの重臣の一人がカルピニに返書を渡す。それはモンゴル語で書かれたもので、大臣自らが更にペルシャ語に翻訳し、カルピニはラテン語で筆記した。この三種の言語が時のユーラシア大陸の外交言語だったからである。大ハーンの返書は以下のように書かれていた。
「とこしえの天の力によりて、大いなる遍く民のハーンの勅令。教皇殿が知る為に、理解せん為に、贈られる書簡なり。......教皇たる汝は、自ら朕の下へ挨拶に来るべし。朕はその時に、われわれの法令を聞かせよう」
カルピニは直ちに帝都ハラ・ホリムを出発し、一路、西へと急いだ。1247年6月にキエフに到着し、秋にリヨンに帰還した。グユク・ハーンの返書を手にした教皇の心情は伝えられていないが、書簡は長らく秘匿された。不名誉を隠したかったのだろう。
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