看護・介護や肉体労働はいつまで頭脳労働より低評価なのか 大卒者の3分の1は大卒者向けでない仕事に就く
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<「頭」の割合が増え、「手」と「心」が減った現代社会を、気鋭のイギリス人ジャーナリストが分析。頭脳労働を高く評価する「偏った能力主義」は大きな弊害をもたらしているが、将来には希望もあるという>
EU離脱をめぐるイギリスの国民投票やアメリカの大統領選において、社会の分断が明らかになったのは記憶に新しい。そうした分断の背景には、何があるのか。
それは、偏った能力主義や評価の不平等だ――。
イギリスの総合評論誌『プロスペクト』の共同創刊編集者であり、ジャーナリストのデイヴィッド・グッドハートは、新著『頭手心(あたま・て・こころ)――偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来』(筆者訳、実業之日本社)の中でそう指摘する。
学校や、職場や、政治において、人の評価はどうあるべきだろうか。確かに能力にもとづく評価が望ましいかもしれない。だが、認知能力だけで評価し、それ以外の力(共感力や想像力など)を軽視したら、社会は正しく機能するだろうか。
偏った能力主義は社会に歪みを引き起こしてはいないか。「頭」(=頭脳労働)と比較すると、「手」(=肉体労働や手仕事)や「心」(=看護や介護などのケア労働)への評価はあまりにも低くないだろうか。
20世紀以降、社会が専門家への依存を高めたことで、相対的に「頭」の割合は増え、「手」や「心」は減った。個人の功績に高い価値を置く社会は、看護・介護の仕事を軽視し、弱体化させた。
人々の職業観も変わった。かつては「日々の糧(かて)を稼ぐ」ことが働く目的だったが、徐々に仕事を自己実現の手段と捉える人とそうでない人に分かれていった。
専門職が増え続ける前提は崩れ、AIの影響も押し寄せる
影響は教育にも及んだ。1970年代には認知能力で人を選抜し、高等教育に進ませることが富裕国の教育の主な目的となる。やがて、「手」の経済が凋落して「頭」を基本とする知識経済に移行すると、学歴は認知能力の功績と捉えられる。
さらに、グローバルな商取引やコンピュータ技術が登場することで仕事の二極化が進み、中程度の技能を要する仕事は減少した。そして、「大卒者を増やす」風潮は所得と地位の幅広い分配を困難にした。
だが、高等教育が個人や経済に恩恵をもたらすという理屈は今や通用しない。専門職が増え続けるという前提は崩れ、ロボットやAI(人工知能)の影響で知識労働は減少すると予測されている。現に大卒者の約3分の1が大卒者向けではない仕事に就いている。