イスラム恐怖症は過激なステージへ NZモスク襲撃で問われる移民社会と国家の品格
事件後のニュージーランドはその包容力を世界に示した Edgar Su-REUTERS
<ニュージーランドのモスク襲撃事件は、白人至上主義や排他的なヘイトスピーチに対抗する世界的な取り組みが必要であることを示した>
「弾丸に耳あれば発射を断っていたか、または戻ってくるのを選んでいたのかもしれない」とアラブの詩人は言う。しかし、弾丸には憎しみと同様に聞く耳もなければ、止まる理性もない。
3月15日にニュージーランド南部のクライストチャーチで、2カ所のモスク(イスラム教の礼拝所)が襲われ、50人もの罪のない人々の命が奪われる事件が起きた。被害者の中には医者やサッカー選手、小学生もいた。彼らが標的にされた理由は、移民系イスラム教徒だからだ。モスク襲撃の最初の被害者となったアフガニスタン出身ニュージーランド人のダウード・ナビさんはこの事件の象徴的存在になった。ダウードさんは、礼拝所の玄関で「ようこそ、兄弟よ」と襲撃犯に声をかけるとすぐに射殺された。誰に対しても平和の精神を持って接しようというイスラム教の教えが実践されたことの悲しい代償となった。
なぜ殺すのかという疑問については、犯人は74枚に及ぶ、憎悪に満ちた文書に「移民でイスラム教徒だから」とその理不尽な理由を並べ立てている。容疑者のまとまりのない独り言や事実誤認が羅列されたその文書には、イスラム教徒が白人を抹殺するという陰謀論が繰り返されていた。今や世界的現象にまでなった、イスラモフォビア(イスラム恐怖症)がもたらした残忍な犯行だった。
ジャシンダ・アーダーン首相は16日、クライストチャーチを訪問して記者会見し「これはわれわれが知るニュージーランドではない。あなたたち(被害を受けたイスラム教徒)は私たちである」とイスラム教徒への最大限の連帯感を行動で示した。日本と同じ島国で「安全な国」の1つだったニュージーランドでは今も、テロの標的となったことの衝撃が続く。ニュージーランドのイスラム教徒は全人口の1%にも満たないという。「私は、イスラム教徒でニュージーランドの警察リーダーの1人であることを誇りに思う」と、事件後にある女性警官が涙をしながら挨拶する姿に文字通り世界は泣いた。
排他的ヘイトスピーチとの関係
今回の事件は極めて平和な社会で起きた。200の民族と160の言語からなる包摂的な国ニュージーランド。人を歓迎する国というのも世界の定評だ。普段は国際ニュースにもほとんど登場しないニュージーランドでこのような痛ましい事件が起きたのも、多くの人にとって衝撃的だったろう。
ニュージーランドにとっての唯一の救いとなったのは、事件の実行犯がニュージーランド人ではないこと。彼はオーストラリア人である。
地政学的視点からも、事件を考えていく必要がある。今回の事件と欧米諸国で極右勢力が起こしているヘイトスピーチは、全く関係のないものではない。問題の根は深くつながっている。テロの最大の動機は「周りの環境とその社会に対する不満」だとされる。そしてそれを制するのは、一般の人々の「共感」と「否定」の動向だと私は考える。「共感」は一般に良い意味で用いられるが、過激な思想や言動に「共感」するというネガティブなものもある。また、同じように相手を否定することで自分を肯定する排他的ヘイトスピーチもある。人間の基本的感情の一つである「共感」と「否定」は人をまとめることもあれば、人を分断することもできる。場合によって、「共感」と「否定」は紙一重だと言える。
約100人を死傷させた実行犯は、移民、特にイスラム教徒を拒絶する極右過激主義に特有の用語や画像を多用していた。犯人が共鳴している白人至上主義者や右翼勢力は憎悪に満ちた表現や画像を拡散するなどヘイトスピーチ活動をしながら、過激主義だと非難されないように常に正体を偽っていた。しかし、彼らの憎しみはもはや言葉にとどまらず、ますます極悪非道へと傾いていく新たな段階に突入したようだ。そして、彼らの活動を容認する極右の政治的運動や、世論の理解も進んでいるように思える。
反移民や白人至上主義を掲げる欧米各国の極右勢力は、なぜ移民やイスラム教徒に対して憎悪の念を抱くのだろうか。