このように、世紀末ウィーンは、伝統や慣習に基づく前近代的豊かさと、革新的でグローバルな近代的豊かさとがせめぎ合う混沌とした活気ある社会であった。
新興経済人は皇帝から貴族位を得て、伝統的貴族はそれを脅威とみなす。経済人に多かったユダヤ系への差別も少なくない。このような中、一枚岩とは決して言えないものの、彼らは伝統あるウィーンの「上流社会」の一員としてまとまっていたのである。
さて、ザントグルーバーの研究に話を戻そう。
彼は若い頃からオーストリアの消費研究の第一人者として知られてきた。伝統的な経済史研究がもっぱら「生産」に注目する中、いち早く「消費」を重視し、鋭い感性をもって膨大な史料を読み解き、オーストリアの経済成長の特徴を独自に論じてきた希有な経済史家である。
そのザントグルーバーが特に注目したのがウィーンの富裕層であった。
当時の君主国では、最高税率5%程、かつ低所得者は対象外という所得税がささやかながら導入されており、その1910年の納税記録から、富豪(年間所得10万クローネン超の者)は全土で1513人。その3分の2(929人)がウィーンやその周囲に住んでいた。
まだ多くの人の所得は低く、君主国のオーストリア側でも、課税対象外とされる年収1,200クローネン未満の者が総人口の9割に達した時代である。年収10万クローネンなど多くにとっては縁のない「夢のような金額」だったとザントグルーバーは言う。
彼はこの町の富裕層個々人に焦点を当て、出自や成功の経緯、富が費消される様相から上流社会を詳しく論じている。(富裕層と言っても内実は様々で、年収で見ても下は10万クローネンから、最高で2,500万クローネン超のウィーン系ロスチャイルド家の当主まで幅広い。)
本書からは、当時のウィーンの上流社会はハプスブルク君主国の政治経済的特殊性があってこその存在だということが見えてくる。
まず、当時のハプスブルク君主国は典型的な後発工業国であったということだ。英仏独など先発工業国の新技術を一気に取り入れるべく、手工業から近代工業への変化や、蒸気からガス、電気への技術・エネルギー革新が各地で短期間に進み、事業統合が繰り返されていた。
つまり当時のこの国はビジネスチャンスに満ちており、それを活かしたのがウィーンの富裕層だったのだ。
また、東欧やバルカン各地まで陸続きで広がる版図の巨大さ。彼らはこの他国にない特徴を存分に活かしていた。
アルプスやアドリア海沿岸の観光業、バルカンやボスニアの大山林の林業、ガリツィア(現在のウクライナの一地域)の石油産業、オーストリアやチェコの機械製造業、はては中東やアフリカでの列強諸国の植民地人向け百貨店事業......。
その多彩さといい企業家の努力といい、一般には知られざる君主国経済の躍動の成果がウィーンに結晶したといえよう。
こうして豊かになった人々は、ウィーンの邸宅で従者に囲まれて暮らしていたのだ。
vol.100
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