例えば1820年代には、ビルマ戦争の余波がインド全土に及び、イギリスのインドからの完全撤退が噂されるような大規模な治安の悪化がみられた。そのように非常事態が常態であるような植民地では例外的な対応もやむなし、とされたのである。
これに対して、国王裁判所は、インド人にもイギリス人と同じ法の保護が与えられるべきだと主張した。判事は法廷で、緊急事態かどうかを決定する権限は政府ではなく裁判所にあるとして、政府による緊急事態への対応を違法としたのだ。
国王裁判所において東インド会社の政策に反する決定が下されることは、イギリス人行政官にとって脅威であった。彼らは、東インド会社の政治的な権威が弱まり、国王裁判所がインド人による反政府運動の結節点となることを恐れていた。
当時のボンベイ知事は、やがて大きな反乱につながる懸念があるとして、インドにおける会社と裁判所との二重権力状態を解消すべきことをイギリスの政府・議会に繰り返し進言している。
最終的に、イギリスの政府・議会は、インドにおける司法の独立性を減じて行政の権限を大幅に強化する法案を成立させ、事態の収束を図った。インド植民地の政治体制はより専制的になっていく。
様々な統治機構改革を統治の現場で実行することは困難であった。ボンベイの例に典型的なように、現場のイギリス人行政官は、反乱の恐怖におびえつつ、その場しのぎの対応を繰り返すしかなかった。
そのようなイギリス人行政官の危機感と恐怖心が、強権的な植民地統治の一因となっていた。
このような行政・司法対立は、カナダ、オーストラリア、ジャマイカなど、他の植民地でも頻繁に生じていた。もちろん、反対に、行政と司法が一体となって現地住民の権利を制限した例も多数存在している。
いずれにせよ、個々の裁判事例において政府が勝訴するかどうか、あるいは、行政と司法の関係が一時的に良好であるかどうかは、根本的な問題ではなかった。
むしろ植民地政府は、緊急事態の認定のような政治的決定を裁判所が下しうる状況、すなわち政府が政治的な問題についての決定権を独占できていない状況を問題視したのである。
vol.101
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