予期せぬ事態で簡単に貧困に陥る「格差社会」での幽霊のような存在
掃除婦を雇っている人たちは、「私が雇ってあげなければ、彼女たちは生活に困る。私は仕事をあげているのだ」と自分の行動を正当化する。自分が掃除婦に対して思いやりがある人物であることを誇るかのように「私は私の掃除婦が大好き」とツイートしたイギリス人女性もいる。だが、あるアメリカ人女性はその女性に対して「親愛なるイギリス人のレディへ。私はヨチヨチ歩きの子どもを持つシングルマザーだったときにあなたの家を掃除した者です。私は、あなたたち全員が大嫌いです。あなたのトイレに肘まで手を突っ込んで掃除することを私がどれほど『誇りに思っていた』かなんて、あなたがインターネットで言ってたら、私は喜んであなたの窓にレンガを投げ込んだでしょう」と怒りを顕にした。ステファニーは、それに「同感」とコメントしてリツイートしただけだったが、彼女がこのツイッター論争に対してどう感じているのかは明らかだった。
女性コラムニストの攻撃的な反論を受けた男性コラムニストは、「自宅待機で暇になった女が掃除をするべきだ」などとはまったく言っていない。それに比べ、「私は仕事で忙しいから掃除などできない」「ティーンエイジャーにやらせればいい、というのは簡単だけれど(実現はそう簡単ではない)」といった彼女の反論には、「高等な仕事をしている私や高等教育を受けている私の子どもたちが、トイレ掃除なんて下等な仕事はできない(だから、高等教育を受けておらず、スキルがない女性に任せることのどこが悪い?)」という本音が透けて見える。フェミニストを自称する彼女たちが「掃除婦も誇りに思うべき素晴らしい仕事」と讃えても、それが表層的な褒め言葉であることを、ステファニーたち「メイド」はよく知っている。
他人の家の汚いトイレを掃除し、その家の人たちから同等の人間として扱われない「メイド」になりたくてなっている人はほとんどいないだろう。だが、高等教育を受ける前に妊娠し、パートナーの援助なしに子育てをしながら生活費も稼がなければならないシングルマザーや、家庭での暴力で家出した若い女性などにとって、生き延びるための選択肢は「メイド」や性産業くらいしかないのだ。それなのに「自分は彼女たちを雇って援助してあげている」と悦に入っている人たちの自己欺瞞を、彼女たちは憎んでいる。
ステファニーたちが本当に欲しいのは、自分たちを見下しながら利用する顧客ではない。自分への誇りを失わずにすむ仕事の選択肢であり、それを支えてくれる社会福祉なのだ。文才があり文筆家になる努力を続けたステファニーはメイドの仕事から抜け出すことができたが、それはとても稀なケースだ。ステファニーが書いてくれたこの本のおかげで、私たちは彼女たちの苦しさや本心を知る機会を得た。
日本には、イギリスやアメリカのような「メイド」はあまりいない。だが、ステファニーのように貧困にあえぐ人たちはいて、他の人がやりたくない仕事を引き受けている。でも、その仕事だけでは彼らは食べていくことができないから生活保護を受けることになる。ステファニーも書いているが、アメリカには、そういった人々を「自分では努力せず、福祉を食い物にしている怠け者」とみなす雰囲気がある。その雰囲気を作った立役者はロナルド・レーガン大統領だ。福祉を不当に利用して贅沢な生活をしていたある女性についての1974年にシカゴ・トリビューン紙の記事が有名になり、レーガンはそれを大統領選に利用して貧困層の援助削減を正当化した。レーガンのキャンペーンには説得力があり、生活保護を受けながらキャデラックを乗り回す「福祉女王」のイメージが定着した。
制度の穴を利用する者はいてもごく少数でしかないのに、生活保護を受ける女性は今でも「福祉女王」のようにみなされている。しかし、実際には、女性に限らず生活保護を受けている多くの人は単に不運だっただけだ。日本でも受給者に対する世間の目は冷たいが、予期しなかった事故、病気、失業、妊娠などで、人は簡単に貧困に陥るものなのだ。
この本でステファニーがメイドになったのは、リーマンショックの時代だ。けれども、現在のパンデミックの影響はそれを超える経済難をもたらすであろう。そして、「不運」な人たちはもっと増えていくだろう。これまでは「自分には関係ない」「貧しいのは怠け者だからだ」と目を背けてきた人たちにとっても、もはや他人事ではない。
自分が思いがけなく転んだときにそのまま坂を転げ落ちずにすむ社会を、今のうちに私たちは考えておくべきなのだ。
この本が、そういった社会的対話のきっかけになることを祈っている。
渡辺由佳里(エッセイスト/洋書書評家/翻訳家)
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