ノーベル賞を受賞した科学者の私が、人生で後悔していること

2021年6月12日(土)17時35分
ロバート・J・レフコウィッツ(米デューク大学教授、2012年ノーベル化学賞受賞者)

<医師・科学者としてノーベル賞を受賞するまでになった筆者だが、悔やんでいることはいくつもあるそう>

後悔は少なからずある。私は最近、医師・科学者としてのキャリアを振り返る回顧録を書いた。本には書かなかったけれど、執筆の過程ではおのずと、これまでの人生で悔やんでいることをいくつも思い出す羽目になった。

特に後悔せずにいられないのは、楽器をマスターしなかったことだ。若い頃に打楽器やピアノに手を出したこともあったが、長続きしなかった。医師になりたいという夢の実現を急ぎ過ぎたようだ。

それでも、自分が一流の音楽家だったらよかったのに、という思いを忘れたことはない。実は、時々その妄想を実践に移すこともある。

数年前、大学キャンパス内のレストランに行ったときのこと。テーブルに案内されるまで、ピアノが置いてある前の椅子で待つことにした。すると、ピアノが自動演奏を開始した。私はすかさず鍵盤に手を乗せ、音楽に合わせて体を揺らし始めた。自分がピアノを弾いているかのように。

やがて演奏はクライマックスへ。曲が終わった瞬間、私は情熱的なピアニストよろしく両手を高々と宙に掲げた。次の瞬間、レストランは万雷の拍手に包まれ、私は起立して恭しくお辞儀をして応えた。私が自分のテーブルに向かって歩き始めたとき、ピアノが再び自動演奏を始めて、今度は店内が爆笑に包まれた。

空想することのチカラ

教え子たちには、「ノーベル賞を受賞するまでに長い時間がかかったことを残念に思いますか」と、よく聞かれる。この問いの答えは、ある面でイエスだ。長く待たされたせいで、両親共に私のノーベル賞受賞を見られなかった。

学生時代や研究生活の初期にいろいろな賞を受賞したが、母にはいつもこう言われたものだ。「おめでとう。でもノーベル賞ならよかったのに」

ノーベル賞の授賞式に母と一緒に出席できれば、どんなによかっただろう。そのチャンスはなかったが、私は授賞式に臨んだとき、母が隣にいて喜んでいる姿を心の中で思い描いたものだ。

振り返ると、いくつも後悔はあるけれど、いつも空想に救われてきた。私が才能豊かな音楽家になることはあり得ないし、両親をノーベル賞の授賞式に招くことはもうできない。それでも、空想することが一種のセラピーになって、後悔の気持ちと折り合いをつけてこられた。

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