ウイグル絶望収容所の収監者数は89万人以上
著名なウイグル人民族主義者の出身地も拘束率が高い。例えば現在の世界ウイグル会議総裁であるドルクン・エイサの出身地ケリピン県は2割以上、1930年代に東トルキスタンイスラーム共和国を南新疆に興そうとしたムハンマド・イミン・ボグラの一族が住んでいたホタン県では、ウイグル人やカザフ人の4割近くが拘束されている。
ウイグル人やカザフ人らを収監し、愛国主義教育と漢語使用を強要し始めたのは、元チベット自治区党書記だった陳全国(チェン・チュエングオ)が、16年8月に新疆ウイグル自治区党書記になってからだ。16年末に試験的に収容が始まり、17年から大々的に行なわれるようになった。陳全国がチベットにいた頃、チベットでは約100人を優に超えるチベット人が党のチベット政策への抗議を込めて焼身自殺したことからも分かるように、陳は少数民族弾圧の手腕を党に買われて新疆党書記に「出世」した。
留守児童の死と、収容所で死んだ子ども
収容所では携帯電話を充電することさえできないが、ごくまれに内部の声も漏れ伝わってくる。強制収容所問題を報じ続けているアメリカの短波ラジオ放送「ラジオ・フリー・アジア(RFA)」の17年8月22日付ウイグル語放送によると、同局記者が「収容者から、直接話を聞きたい」と収容所員宛に掛けた電話に、偶然出たアブドゥジェリル・アブドゥケリム(ウイグル人)は、「グルジャ県内の強制収容所に収監された理由は、息子をトルコ留学させたからだ」とインタビューに答えている。つまり収監の正当な理由など無いのだ。文化大革命の時代と同様、「反革命」「反愛国」的と見なされれば、誰でも収監される。
ウイグル人強制収容政策が始まって1年を過ぎた最近、国外在住ウイグル人の間で最も懸念されているのが、「留守児童」の問題だ。親族が収容所送りとなり幼児だけ自宅に取り残されているケースが多発し、残された幼子たちは孤児収容所送りとなることが多いものの、自宅に残された幼児も多数いて、そうした子どもが事故死したとの事例も頻繁に聞こえてくるようになった。さらに「非人道の極み」として聞こえてくるのが、収監された子どもの死亡ニュースである。
「留守児童」問題については、ホタンのグマ県コクテレック村役場が作ったチラシ(写真)が、その深刻な事態が露呈させている。RFAの18年3月5日の報道によると、コクテレック村のエスマ・アフメット(8歳)は、石炭ストーブの上にのせていた鍋が倒れたことが原因で、全身60%の大やけどを負った。父母と兄は再教育のため不在で、エスマは自分で食事を作ろうとして事故に遭った。村役場はこの状況に心を痛め、治療には30万元が必要だ、とのビラを配布した。