オウム死刑で考えた──日本の「無宗教」の真実

2018年7月13日(金)15時30分
パックン(パトリック・ハーラン)

正直、言い方はなんでもいい。とにかく自分のことを考えるとき、宗教と無関係だと思ってほしくないのだ。それが、オウム真理教事件から教わるべき教訓の一つ。多くの人は「われわれは無宗教だ」という見方から、オウムの教えや信仰をあざ笑い、「バカバカしすぎる」と軽く片付けているようだ。しかし、これは危険な思い込みだと思う。「あいつらと違って、われわれのは形だけの宗教だ」とか、「健全な信仰だ」と、安心するのは少し甘いかもしれない。

ほとんどの人は最初から宗教的な何かを信じている。「信じる心」を持っている。教育大国、技術先進国の国民であっても、思っているほど危ない宗教の魅惑・誘惑に免疫ができているわけではない。

アイデンティティー、コミュニティー、存在意義などなど、宗教から得られるものはたくさんある。社会との不一致を感じたり、孤独感に駆られたり、生き甲斐を見失ったり、何かを求めたりする人にとって宗教の魅力はあらがいがたい。無宗教と名乗りながらも、最初から超自然的なものを信じている人が多い。

困ったときに、自身の要求に答えるものが多少非現実的であっても、少し非常識であっても、理性に反しても、それについていくのは想定外の話ではないはず。その可能性を想定内にしないといけない。

次のオウムが生まれないようにするには、政府や社会が1人1人へのケアを充実させるのも大事だ。同時に、「無宗教」に隠れている宗教観と心理を分析し、理解し、周知する必要もあると思う。それを把握した上でないとカルト教団への本質的な対策はできない気がする。

でも逆に、その理解を踏まえれば、超自然的な力を借りずに個々の精神的な、社会的な要求に応じる「何か」が生まれるかもしれないと僕は......信じる。というか、生まれると祈っている! この間、短冊にもそう書いた。

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