オバマ前大統領がベストムービーに選出した『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』

2020年10月8日(木)18時10分
大場正明

最初に登場するのは、学校に向かう黒人の少女で、彼女が目の前に立つ防護服を着た男の顔をじっと見つめている。やがて彼女がスキップで進みだすと、なにかを訴える声が響き、箱の上に立つ黒人の説教師のわきを通り過ぎる。その説教師の前にいるのは、たまたまバスを待っているジミーとモントだけだが、彼らがスケートボードで遠ざかっても、その説教がナレーションのように流れつづける。


 「なぜ奴らは防護服を着る? なにかが起きている。みんな用心してるか? 我々は着ないのに。奴らが海を浄化する? 50年間悪魔の口より汚れているのに浄化だと? 我々を地獄に落としたくせに。奴らが生まれる前から海水汚染を訴えてきた。本気で助けないのならほっといてほしい。土地や故郷のために闘え」

この汚染に関わるエピソードは、その後も何度か挿入される。ボートで海に出たモントは奇形の魚を釣り上げる。黒人グループのひとりは、海岸線の建物を指さして、「そりゃそうさ、あそこで原爆を作ってる」と語る。

これらはまったく非現実的なエピソードというわけではない。ハンターズ・ポイントにあった海軍造船所には、原子力施設があり、汚染が問題視され、大規模な浄化が行われた。しかしいまだに近隣住民の健康被害の報告があるという。そのことに、かつてフィルモア地区に暮らしていた黒人たちが、そこを追われ、ハンターズ・ポイントに移ったという歴史を重ねると、環境的人種差別の問題も垣間見ることができる。

黒人版『不思議の国のアリス』のシュールなイメージ

しかし、タルボットは、そうした現実を示唆するにとどめ、ある種のお伽話、あるいは神話的な物語といえる世界を切り拓いていく。本作にそんな狙いがあることは、サントラに収められた曲のタイトルが物語っている。

たとえば、「Black Alice in Wonderland」だ。ドラマでは、風変わりな帽子をかぶったモントを、黒人グループの連中が嘲るときに、黒人版『不思議の国のアリス』という言葉が出てくるだけだが、タルボットは作品全体を通してシュールなイメージを意識している。

冒頭では、スケートボードでフィルモア地区に向かうふたりを、男が服を脱ぎ棄てながら追いかけてくる。疎遠になっている父親を訪ねたジミーがバスを待っていると、帽子をかぶった全裸の男が隣に座る。最初に黒人の少女が登場するのも、それと無関係ではないが、アリスになるのは、少女ではなくジミーである。

さらに、サントラでもうひとつ注目したいのが「King Jimmie」だ。ジミーは、城を追放された王に例えられている。不法占拠で家を取り戻したジミーとモントが、バルコニーに出て、英国王になった気分で民衆に手をふるのは、必ずしもその場だけのユーモアではない。ただし、もちろん王の帰還がこの物語のゴールではない。愛着を持つ家こそが、ジミーの冒険のための異空間となっていく。

自己を確立するためのイニシエーション

そこで重要な役割を果たすのがモントだ。ジミーを含め、モントを取り巻く人物はみな、なにかに深く囚われている。説教師は、鏡の前で身支度を整える間も説教を繰り返し、誰も耳を傾ける者がいなくても訴えつづける。

コフィーは仲間から男らしくないことを責め立てられ、それが不慮の死の遠因になる。これに対して、劇作家に憧れるモントは、常に人物を観察し、桟橋を舞台に見立てたり、鏡に向かって、説教師やコフィーを自ら演じている。そんな彼の熱意が、ジミーを変えるきっかけをつくる。

そのジミーの変容は、スケートボードを通して象徴的に描かれる。印象深いのは、ジミーが父親に会いにいく場面だ。彼は、常に持ち歩いているスケートボードを路上生活者に預けてから父親を訪ねる。父親はスケートボードをやめたという彼の嘘をすぐに見抜き、腹を立てる。ジミーを王に例えるなら、スケートボードは剣のようなものだといえる。しかし、最後にジミーはそれを自ら壊すことになる。

ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いているように、神話的冒険は、「分離」、「イニシエーション」、「帰還」という過程をたどる。そのイニシエーションでは、「自らが築き上げ暮らしている世界の破壊、その一部となっている自己の破壊」が行われる。

タルボットは、ジェントリフィケーションの現実を踏まえつつ、家を取り戻そうとする物語を神話的冒険に変え、自己を確立するためのイニシエーションを鮮やかに描き出している。

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