世界でもっとも多い統治形態は民主主義の理念を掲げる独裁国家だった
理念と実装に乖離があるおかげでクーデターを行わずとも、選挙民主主義の国の選挙で勝って選挙独裁主義向きの制度や組織を導入するだけで選挙独裁主義に移行できる。ハラリが述べたように、以前は理念も実装も異なっていたからすぐに違いがわかった。今は表向き同じ理念を掲げているから移行は容易であり、わかりにくい。
まず政権を取るためには最低限の資金や組織力などが必要となる。資金は経済発展および支援は中国からもたらされ、インターネットによって新しい形の組織力が広がった。さらにアメリカを始めとする各国の民主主義振興の後退もあり、非民主主義化は進めやすくなった。これが2006年以降の変化を呼んだのだろう。
理念と実装の間に乖離があることが、民主主義のゼロデイ脆弱性であり、それを利用してシームレスに選挙独裁主義に移行する傾向が起きている。
理念と実装に乖離があるのは利点にもなる場合もある。たとえば「自由で開かれたインド太平洋」に権威主義化の進んでいるインドが参加できるのは民主主義的理念をお題目として唱えればそれで問題なしとしているからだろう。理念と実装がきっちり結びついていたら、権威主義化の進むインドとは手を組みにくいし、少なくとも「自由で開かれた」とは言えない。独裁主義が理念を偽装できるように民主主義でも理念の偽装を許容できる(望ましいこととは思えないし、果たして民主主義の枠内に収まるのか懸念はある)。
皮肉で言っているのではなく、対中国だけを考えるなら効果的だろうと考えている。そして、民主主義でるか否かの境界をあいまいにしておけば、必要に応じていくらでも参加国を増やすことができる。
こうしたあいまいさはこれまでも民主主義を助けてきた。前掲の『民主主義の死に方―二極化する政治が招く独裁への道―』はアメリカの民主主義は制度や法律ではなく、政治家の良識と寛容という「柔らかいガードレール」によって守られてきたと指摘している。
よく言えば柔軟、悪く言えば行き当たりばったりの論理性のない世界で民主主義は「大義」として生き延びてきた。中国とアメリカという対立図式が続く間は、繰り返し「民主主義の危機」を政治の文脈の中で都合よく使ってゆくことになるのだろう。
しかし、この方法には大きな落とし穴がある。すでに選挙独裁主義と独裁主義、権威主義は世界の多数派となっている。この傾向は今後も続く可能性が高い。中国の一帯一路参加国の人口も世界の半分を超え、GDPも超えるだろう。そうなれば経済便益のために選挙民主主義から選挙独裁主義に移行する国は増えるだろう。民主主義のゼロデイ脆弱性(脆弱性を解消する手段がなく脅威にさらされる状態)を放置することは、世界の多くの国が選挙独裁主義に移行する危険性をはらんでいる。それを防ぐためには、新しい形の民主主義=理念と実装の乖離をなくした社会の創造が不可欠である。
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