研究者の死後、蔵書はどう処分されるのか

2019年7月10日(水)11時45分
保坂修司

残念ながら蔵書の多くは古かったり、装丁のいいかげんなアラブ圏やインド・パキスタンでの出版物が多かったりしたため、紙魚(シミ)や埃でかなり保存状態が悪かった。それでも、貴重そうな本もあったので、欲しがる若手研究者もいるのではと、この研究者にゆかりのありそうな人、専門分野の近そうな人を中心に声をかけ、大学院生などに宣伝してくれるよう頼んでみた。さらに、ツイッターでも宣伝した。

しかし、結果的には、ほとんど何の反響もなかった。いや、正確にいうと、それなりに反響はあったのだが、実際に欲しいという人がまったく出てこなかったのだ。その研究者との関係というより、私自身との個人的な繋がりで、無理やり押し付けたのが数冊あるきりで、あとはぜんぜん需要なしである。

日本語のアマゾンでも購入でき、Kindleもアラビア語に対応した

私自身が学生だったウン十年まえごろには、そもそもアラビア語やペルシア語など中東の諸言語を含め、外国の書籍を買うこと自体が研究の一環であり、外国の書店や出版社への注文のしかたから、海外送金のしかたまでが教師や先輩から受け継がれるテクニックでもあった。そのため、タダでもらえるとなれば、専門分野と少しぐらい離れていたとしても、喜んでもらいにいったものだ。

だが、今はもう、アラビア語の書籍ですら、アラブ圏のオンライン書店だけでなく、日本語のアマゾンでも購入できる時代である。しかも、昨年ぐらいから、Kindleもアラビア語対応するようになり、となると、送料も浮くし、でかい本でも場所をとらなくてすむ。

また、著作権の切れた古典的名著もぞくぞくとデジタル化されてきている。それはそれでいいことなのだろうが、その昔、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入した高価な専門書がつぎつぎデジタル化され、無料で公開されているのを知ったときの気持ちときたら、文字どおり泣くに泣けないという感じだろうか。

人文科学系の学問でも本に対する接しかたは大きく変貌してしまったのだろう。私にとって先生の先生の先生にもあたる詩人の西脇順三郎がその昔、親族の子に英語を教えることになったとき、その子にまず教科書となる本の匂いを嗅げと指示したそうな。本を読む、あるいは勉強することを本の匂いを嗅ぐことからはじめるというのはかなりマニアックだが、紙の本には、デジタルなものにはない何かがあると考える人は今でも少なくないはずだ。

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