スピーチとスカートはやっぱり短いほうがいい
今週のコラムニスト:スティーブン・ウォルシュ
[4月30日・5月7日号掲載]
日本人はセレモニーと定番のスピーチが大好きらしい。結婚式はもちろん、マージャンの最後も誰かのスピーチで締める。私は最近まで、そうしたセレモニーは良く言えば不思議で異国的、悪く言えば必要ないし落ち着かないと思っていた。
この春、わが家では子供2人が進学したため、計4回セレモニーに出席した。私自身は入学式の経験はなく、卒業式も1回しか出なかった(出席したのは好きな女の子に誘われたからだ)。
ヨーロッパ人の私からすれば、セレモニーの旗と花飾りと制服とスピーチは、アメリカ的でわざとらしく思える。日本では毎年4月に入社式が行われ、新入社員が全員ほぼ同じスーツ姿で整列する。異様なだけでなく、軍隊を思わせる不穏な光景だ。
さらに、日本のスピーチは決まり文句があまりに多い。季節の挨拶は詩的で魅力的だが、学生や新入社員を前にしたスピーチでおなじみの、古臭い資本主義的なレトリックにはうんざりさせられる。
学生に向けたスピーチで特に多い話題は、スポーツ選手のハングリー精神や、イチローのようなアスリートが雨の日も晴れの日も休まず練習して成功した話。野球選手には役立つかもしれないが、2次方程式や同級生との複雑な人間関係に悩む子供たちには、あまり意味がないだろう。
今春の東京大学の卒業式で、学生が居眠りをしたり携帯電話をいじったりしていたことが話題になった。「タフ」と「グローバル」が何回も登場した総長のスピーチに、多くの卒業生が感動しなかったのは不思議ではない。「グローバル」を繰り返すのは、島国的な発想でもある。卒業生の大半にとって、グローバル化はもはや当たり前だというのに。
実際、スピーチの最中に「グローバル」と「タフ」を織り交ぜたツイートを投稿した学生たちは、まさにグローバルだ。マルチタスクをこなし(スピーチを聞きながらツイートする)、スピーチを評価して批判し(決まり文句を黙って受け入れない)、意見を表明して批判されるリスクを冒すというタフさもある。
■はなむけの言葉は前向きに
若者へのスピーチでは、ハングリー精神や苦悩など、時代遅れのマゾヒズムは控えめにしてはどうか。誠実さ、思いやり、率直さ、創造性、協力など、前向きな理想を聞きたいものだ。
実は、私は息子の小学校の卒業式で、PTA代表として「お礼の言葉」を述べなければならなかった。最初は気が進まず、スピーチにありがちな空虚なレトリックに否定的な印象しかなかった。でも、あらためて考えると、セレモニーにも価値があることに気付かされた。
東日本大震災が起きたとき、私はたまたま息子の学校にいた。卒業式は、大変なときに努力してくれた学校にお礼を言う格好の機会でもある。そのようなスピーチをさせてもらえることは、喜びであり名誉ではないか。
英語には「スピーチとスカートは短いほどいい」という言葉がある(私にはスコットランドの愛国主義者でキルトを着用しているおじがいるので、必ずしも賛成ではないのだが)。しかし心理学者によると、退屈は子供の創造性を伸ばすのに役に立つという。長いセレモニーの間おとなしく座っていることも、彼らのためになるのかもしれない。
それに、東大は日本の最高峰のエリート養成機関だ。スピーチの最中に、携帯電話で癌の治療法の特許について調べていたのかもしれないし、夢の中で数学の公式を考えていたのかもしれない。ドイツの化学者ケクレは、ヘビの夢を見てベンゼンの化学的構造を思いついた。
私は最近、セレモニーとスピーチが好きになってきた。短いスピーチでその意義を訴えてみようか。会場の後ろで居眠りする人がいないといいのだが。
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