不景気の今こそ屋台を復活させよう
今週のコラムニスト:クォン・ヨンソク
〔8月8日号掲載〕
僕は今、ソウル大学で講義をするため韓国に来ている。繁華街にスタバやユニクロが並び、チェーンの日本食店も目につくなど日に日に東京に似ていくソウルだが、その中に僕の心を和ませる風景がある。韓国の代名詞であり、東京ではすっかり見なくなった「屋台」だ。
「ポジャンマチャ(包装馬車)」と呼ばれる韓国の屋台は、この国の激動の現代史と共にあった。植民地支配と戦争を経験した極貧の韓国において、資本金なしでリヤカーと人間の力だけあれば始められる屋台は、安定とは無縁のその日暮らしながらも、民衆の生きるエネルギーそのものだった。僕はこの屋台に、閉塞感漂う日本の再生の光を見た。
韓国の人々は駅やバス停、学校付近に並ぶ簡易屋台でトッポギやおでん、ホトックを頬張る。そして夜には青空居酒屋と化す飲み屋台で、砂肝の辛口炒めや貝のスープをつまみに、日々のつらさと無念を度数の強い焼酎で流し込み、人間の深い情を交わし合ってきた。
韓国ドラマでも屋台のシーンは欠かせない。男女の距離が決定的に近くなる際の定番だ。おしゃれでタカビーな女性が簡易椅子に座り、焼酎を飲んでは「クーッ」とうなる。このシーンは、いくら容姿が現代的になっても結局は韓国人なんだと、視聴者の安堵を生む。屋台は韓国人のアイデンティティーを形成し、再確認する立派な文化装置でもあるのだ。
だが一方で、「文明」との対決にもさらされてきた。80年代半ば、韓国に来た日本の友人を姉が屋台に連れていったことがある。その友人は喜んだが、韓国観光公社に勤める父にはひどく叱られた。先進国からの貴重な「お客さん」を、衛生面で問題のある屋台に連れていくとは不届きだというのだ。屋台は韓国の貧しさ、野蛮さを示す「恥部」でもあった。
90年代初頭には、真夜中の路地裏の屋台で飲んでいると突然取り締まりが始まることもあった。見張り役が「警察だ!」と叫ぶと、屋台の裸電球が一斉に消され静寂が広がる。見知らぬ人たちの間で奇妙な共犯関係が生まれるのだが、それがスリリングだし人間の絆が感じられた。
■「失業したら屋台でもやるさ」
日本でも韓国でも、現代社会に生きる人々は組織への帰属と競争を強要される。既存の枠組みやレールから外れることは許されない。こうした枠組みを否定すれば、生きていくことすら困難になる。だが一方で、国家や企業が人々に安定と豊かさを提供する時代は終わりつつある。ならば市民には、無力な枠組みから脱し、自分の力だけで生きていける「自活の権利」が与えられるべきではないだろうか。
そこで登場するのが屋台だ。屋台は立派な失業・貧困対策になる。韓国では人々は失業しても絶望することなく、「屋台でもやるさ」と言い聞かせてきた。不景気と閉塞感漂う日本でも、生活保護や職業訓練より、屋台で自立できるような体制を提供するほうが建設的ではないだろうか。それに、寺山修司や北野武のような鬼才は、スタバやチェーン居酒屋ではなく、人間くさい屋台や路地裏のアナーキーな雑踏から生まれるものだろう。
東京でも戦後初期には屋台が繁盛していたが、東京オリンピックを機に取り締まりが強化されると、経済成長と反比例してその姿を消していった。だが今、清潔で豊かな環境で過ごす日本人は、アジアの国の汚い屋台に解放感とノスタルジーを感じる。ならば、東京に屋台を復活させればいい。アジア各国からの移住者たちによるアジア屋台村が創設されれば、新たな観光スポットにもなるだろう。
行政の「親切な指導」によりユッケもレバ刺しも食べられず、猛暑の中で節電に努めなければならないこの夏の夜。いら立ちと苦悶と喉の渇きを癒やしてくれるのは、アスファルトの路上で焼く熱いホルモン焼きと冷たい焼酎、そして、血の通った人々の笑顔かもしれない。
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