眠らない街トーキョーで布団にくるまる贅沢

2012年8月6日(月)09時00分
東京に住む外国人によるリレーコラム

今週のコラムニスト:マイケル・プロンコ

〔8月1日号掲載〕

 たいていの東京人はどこでも眠れる。電車やベンチや喫茶店、それに私の授業でも。ある晩、立ち飲み屋で隣り合わせた男性などは、立ち飲み屋なら寝ないからいいと言っておきながら、立ったまま寝ていたくらいだ。そんなふうにどこでも眠れる東京人だが、大のお気に入りは清潔なふかふかの布団で寝ることだ。

 東京暮らしを始めて最大の変化は、ベッドをやめて布団にしたことだ。最初は布団で寝るというエキゾチックな経験を楽しんだ。布団は上げて干すものだなんて誰も教えてくれなかったから、初めての布団はいつの間にか湿ってカビだらけになっていた。慌てて手入れをするようになって、布団の移動サイクルというやつが次第に身に付いた。布団は毎日、床からベランダへ、それから押し入れへ運ばれるし、店から家庭へ、最後には「粗大ゴミ」置き場へ運ばれる。

 前かがみになって布団を畳む動作(眠りの神様へのお辞儀だ)は一日の始まりと終わりを告げる。集会の開会と閉会の挨拶のようなもので、その間に東京の慌ただしい日常が詰め込まれている。

 昔ながらの日本の宿に泊まると、私はいつも仲居さんが慎重に布団を敷く様子をそばで見守る。畳み、向きを変え、シーツを折り込むといった一連の動作は、デパートの店員が大切な贈り物を包装するときと同じくらい完璧だ。部屋全体が眠るための芸術作品と化す。

 ただし東京では、布団は伝統的な文化的価値観だけでなく隠れたニーズも表現する。布団の魅力は、繭のように姿を包み隠してくれるところ。東京では一日の大半を多かれ少なかれ人目にさらされて過ごすから、隠れるチャンスは重要だ。内側というのが常に貴重な街にあって、布団は「内側の内側」なのだ。

 絶えず動き、変化し、移動し、発展している東京の街では、布団は安定した土台のようにも感じられる。オフィスビルで仕事中に窓の外に目をやっても見えるのは空ばかり。毎日どれくらい階段やエスカレーターやエレベーターを利用しているのかと思うと、東京で安定して揺るがないのは布団だけという気がする。

■手軽じゃないから価値がある

 東京のような実用性最優先といえる都市の真ん中で、布団がこれほど長く生き残ってきたというのはある意味驚きだ。布団は着物を着るのと同じくらい非実用的で、同じくらい面倒だ。それでも布団はいわば夜の着物。ベッドの不格好な塊に比べて、美しくてエレガントで繊細だ。

 とはいうものの、東京に慣れると布団と格闘するのはどこかペットの世話に似ているような気がしてきた。布団は楽しいけれど常に手が掛かる。だからこそ東京人は布団が好きなのかもしれない。手間暇を掛けるからこそ価値がある。

 布団とベッドはまったく異なる価値観を浮き彫りにする。ベッドは複雑な工業製品で、昼の東京のハイテクライフの延長線上にある。一方、布団はそうした昼の価値観を拒む手作りの工芸品だ。昔の村の暮らしの心落ち着く静けさにしばし戻るようなものだ。

 それでも最近はベッドの手軽さに押されている。東京では昔ながらの暮らしと実用本位の新たなライフスタイルが切り離され、人はベッド派と布団派に分かれるようだ。09年の総務省の調査によれば、日本全体のベッド普及率は61%に上る。

 生まれたときからベッドで寝ていたら、布団の文化や儀式や美しさを知らずに終わるのでは、と心配する人もいるだろう。しかし忙しかった一日の疲れを取り、次の忙しい一日に備えるべく、東京人は今後も、小さいながらも完璧な「巣」を必要とするはずだ。

 ニュートン力学によれば「あらゆる作用は力は同じで向きは反対の反作用を伴う」。眠らない街トーキョーには布団という「反作用」が不可欠なのだ。

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