ささやかなおまけが運ぶ感謝と人情と戸惑い

2012年6月11日(月)09時00分
東京に住む外国人によるリレーコラム

今週のコラムニスト:マイケル・プロンコ

〔6月6日号掲載〕

 先日、自宅で書き物をしていたら玄関のベルが鳴った。若い女性が新聞の契約の更新に来た。私は書類に記入し、毎日の配達の礼を言って、家に入ろうとした。しかし門を閉め終わる前に、大声で呼び止められた。「待って!」

 彼女は景品の写真の束を振りながら言った。「おまけを選んでください! 4つどうぞ!」

「新聞だけで十分です」と答えると、悲しそうな顔をされた。彼女の自転車の籠は、前も後ろもあふれんばかりだった。私はため息をつき、ティッシュペーパー2箱とフェイスタオルを選んだ──ああ、またもらってしまった。

 東京で買い物をすると、ほぼ確実に景品が付いてくる。かわいい置き物やティーバッグや何かしら小さなおまけが、「サービスです」という声を添えて袋に押し込まれる。ポイントカードも、後でおまけを渡しますという約束だ。

 わが家の台所の棚の一角は、つまようじ入れや竹の籠、グラスを洗うブラシなどこまごましたおまけたちに占領されている。捨てるには惜しいけれど、使うにはいまひとつ。女性のほうがおまけをたくさんもらうようだが、幸い私の妻は自分のコレクションをクロゼットに隠している。

 おまけから逃れることはできない。駅の外にはその道の専門家が待ち伏せしていて、ポケットティッシュやクーポン券や缶コーヒーを、バレエを踊るようなしぐさで通行人に手渡していく。

 近所の酒店は数年がかりで、台所用品とピクニック用品を一式くれた。グラス、持ち運び用のバッグ、花見用のシート、栓抜き、コルク抜き、おつまみの袋、袋、袋。もちろんカレンダーは毎年だ。

 アメリカにもおまけはあるが、普通はパソコンなど高額の買い物に付いてくる。シャンプー1本ではもらえない。

 ただでもらうのは気が進まないと感じるのは、東京では私くらいのようだ。私はいつも、もらえる理由を考えてしまう。何か都合の悪いことでもあるのか? もっと買えと言われているのだろうか?

 おまけを家に持ち帰るのは、広告とマーケティングをプライベートな空間に引きずり込むようなものだ。とはいえ、東京では何かを断ることは失礼になるらしいから、私も諦めて受け取る。

 東京人はおまけに対し、本来の買い物と同じくらい真剣だ。おまけを選べるとなれば、香水のサンプルにするか髪飾りにするか、キーホルダーかシールかと悩む。宝石であるかのように空にかざし、どこで使おうかと考えながら。

■東京に根付く贈り物の文化

 おまけは、客と良い関係を築き、何とか喜ばせたいという意思表示でもある。あなたを気遣っていますと伝え、敬意を表する。東京には贈り物の文化が根付いている。旅行に行くとき、家を訪ねるとき、お世話になったとき、結婚式や葬式に参列するとき、いつも贈り物が行き来する。そして買い物をするときも。贈り物は喜びとなり、負担となり、人間関係の網にあなたをからめ取ろうとする。

 不思議なのは、おまけをもらうと、「感情の柔術」の技を掛けられたかのように感謝の思いが生まれることだ。東京の人と人との交流は、つかの間であろうと金銭のやりとりであろうと、感謝が染み渡る。それがなければ、もっと冷たくて疎外された街になるだろう。

 おまけはお土産とお守りの中間でもある。東京の広大な孤独とまじめさの中で、気楽に心地よく暮らそうというささやかなメッセージを運ぶ。

 東京では圧倒的な人の数に、自分は特別な存在ではないと思い知らされる。しかし小さなおまけは、あなたが本当は特別なのだと教えてくれる。ポケットティッシュのように平凡で簡素ではかないものでも、おまけをもらえるくらい特別な存在ですよ、と。

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