「ビッグデータ」ジャーナリズムの条件
最近は何かと「ビッグデータ」が取り沙汰されているが、ジャーナリズムの分野も例外ではない。「データ・ジャーナリズム」、つまり報道にデータを組み込むことの有用性が強調されるようになっているのだ。他の職業と同じく、これからはデータを扱えなければ、ジャーナリストも説得力がなくなるということだ。
では、データ・ジャーナリズムとはどんなものを指すのだろうか。
最近、グローバル・エディターズ・ネットワーク(GEN)という世界各国の新聞や雑誌報道の編集長らが加盟している組織が、「データ・ジャーナリズム賞」受賞プロジェクトに選んだ例で説明しよう。
イギリスの新聞ガーディアンは、以前からデータ・ジャーナリズムに力を入れているのだが、同社はアメリカ各州で認められている同性愛者の権利を、インタラクティブな円グラフにして比較して見せた。結婚、配偶者としてのパートナーの病院訪問、養子受け入れ、雇用平等、賃貸平等、ヘイトクライムの禁止、学校でのいじめ禁止などがどの程度法的に確保されているかを、州ごとに細かく見せたものだ。それを一覧すると、ワシントンDCやコネチカット州などがある北東部では同性愛者の権利がかなり確立されている一方で、南東部や中西部ではごくまばらにしか確保されていない様子が一目瞭然にわかる。
BBCは、自分の収入や貯金額、交友関係、文化的な活動内容などから、イギリスの現代の階級システムのどこに属すかがわかるようなインタラクティブ・アプリケーションを開発した。これは、16万人以上の調査から導き出された新しい階級分類を提示したものである。
それ以外にも、フランスのウェブサイトQuoiは、2008年から2012年までに売買されたアート作品を、年代別、価格別、作者の性別、取引された都市別など、いくつもの条件によってインタラクティブにビジュアルに引き出せるようなしくみを作っている。条件を選び直すごとに丸いバブルの集合が、ほどけては再編成される動きも楽しい。
受賞はしなかったものの、アメリカでもニューヨークタイムズやシカゴ・トリビューンがデータ・ジャーナリズムではかなり先鋭的な試みを連発して知られている。
このように、シリアスな政治社会問題から文化状況まで、データ・ジャーナリズムが活躍している領域は広い。データ・ジャーナリズムの特徴は、文字だけの記事で長々と説明する代わりに、翳りのないデータがビジュアル(図、表、インタラクティブなしくみ)で表現され、一見して理解できること。そして、いろいろな角度からデータを引き出せるので、ひとつの事象も多面的に理解できることだ。
それを可能にするためには、ただの一面的な統計を見せるのではなく、数々の異なるタイプのデータを背後でつなげ、「マッシュアップ(複合)」することが必要だ。つまり、異なるデータの間に何らかの関連性を見いだして、データを正しく組み合わせ、もっともわかりやすい方法で見せるという技能が求められるのだ。
このデータ・ジャーナリズムは、ジャーナリズム自体のあり方も変えている。
そのひとつは、ジャーナリストがチームを組まなければデータ・ジャーナリズムは達成できないこと。数々のデータを探し出してきて、そこから報道すべき内容を浮き上がらせる記者がいて、そのデータをどう関連させてインタラクティブな方法で見せれば読者に通じるかを考えるプログラマーがいて、それをどんなビジュアルで表現するかを練るデザイナーがいる。これまでジャーナリストと言うと、ほとんどの場合が個人プレーだったわけだが、それがデータ・ジャーナリズムでは変わってきているのだ。
また、読者との関係も変わる。これまでは記者が一方的に語る物語を読者が読むという構図だったが、データ・ジャーナリズムでは、記者が論点となる枠組みを語り、読者はそのさまざまな側面をデータをインタラクティブに操作しながら、積極的に模索していく。読者はただの受け身な存在ではなくなるのだ。
こうしたデータ・ジャーナリズムが成り立つためには、そもそも多様なデータがオープンにされていなければならない。この点では、アメリカ政府の「data.gov」というサイトは大変に進歩的だ。財政、人口統計など、さまざまな政府機関が持つデータをここに集めてオープンにしているのだ。「生のデータを提供しますから、あとはいかようにも加工して下さい」というスタンスである。一歩進んだ情報開示の方法を実践していると言える。
インターネットによってジャーナリズムの存在が脅かされているが、インターネットによって新たに生まれたジャーナリズムの姿もある。データ・ジャーナリズムはそのひとつ。これがこれからのジャーナリズムを引っ張っていく可能性には、かなり期待できると思うのだ。
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