政策なき政党、日本維新の会は「中国化する政治」をめざす

2012年11月23日(金)15時45分
池田信夫

 実質的な選挙戦が始まり、14もの政党が乱立しているが、その中で主要政党と目されるのは民主・自民・日本維新の会の3党だ。これは橋下徹氏を代表とする維新の会と石原慎太郎氏を代表とする太陽の党が合流してできたもので、増税やTPP(環太平洋パートナーシップ)や原発などで正反対の政策を掲げる両党がわずか4日で合流したことは「野合」という批判を呼んだ。

 しかしそんなことをいえば、自民党右派だった小沢一郎氏と旧社民党が合流した民主党も野合だし、既得権の保護以外に政策らしい政策のない自民党も、昔から派閥の野合である。政策を基準にして集まる結社という意味の政党は、日本にはもともとないのだ。だからメディアも政策を報じないで「政局」の話題ばかり報じる。

 かつて、こうした状況は中選挙区制の弊害だとされ、「政策本位の選挙にする」という理想を掲げて、小選挙区制にする政治改革が行なわれた。その結果できたのは、昔よりひどい小党乱立と毎年のように首相の替わる不安定な政治である。

 根本的な錯覚は、選挙で政策を選ぶという普通選挙の原則が現実には成り立たないことだ。国民が政策を選ぶというのは、国民投票のような直接民主制ならありうるが、すべての政策について国民が投票するわけには行かない。したがって数年に1度、代理人として政治家を選ぶが、不特定多数から選ぶのは大変なので「政策の束」を掲げる政党を単位にする。

 こういう制度では、民意を正確に反映することはできない。たとえばTPPにも原発ゼロにも反対という人は、今の14党のどこにも投票できない。現実には、有権者のほとんどは細かい政策の違いなんか気にしないで、党の「雰囲気」で決めている。代議制民主主義は、有権者が情報コストを節約するための制度なのだ。アメリカでも、各議員の主張はバラバラで、党議拘束もかけない。今の選挙制度では、政策ではなく人を選ぶしかないのだ。

 ところが日本では「人ではなく政策を選ぶ」という建て前を信じて小選挙区にしたため、2009年の総選挙では「政権交代」という政策ならぬ政策を訴えた民主党が圧勝した。彼らは「自民党と違う」ということだけが売り物なので、子ども手当から沖縄の基地に至るまで自民党と違う政策を実行しようとして挫折した。おまけに「マニフェスト重視」を打ち出したため、小沢氏のような党内の反対派が「増税はマニフェスト違反だ」という理由で主導権争いを始め、空中分解してしまった。

 その点で、最初から政策らしい政策のない維新の会は、橋下氏を「大統領的リーダー」として有権者から「白紙委任」を取り付けようとしている。政策も、悪くいえば一貫性がないが、よくいえば柔軟に変更する。有権者が選ぶのは政策ではなく、橋下氏のリーダーとしての潜在能力である。

 だとすれば、橋下氏以外の議員は必要ない。余計な議員がいると、また党内がごたごたするだけだ。意思決定は橋下氏が行ない、行政実務は官僚がやればよい。官僚をコントロールするには、投票で選ばれる国会議員より首相が閣僚や幹部公務員を政治任用で指名したほうがいい。これは橋下氏が大阪府や大阪市でとった手法である。

 維新の会の基本には、こうした「一君万民」の政治が理想としてあるように思われる。これは私が與那覇潤氏との共著『「日本史」の終わり』で論じたように、「中国型」の統治システムである。近世の絶対主義にも似ているが、君主が選挙で選ばれるので絶対権力はもたない。国会は内閣に対するチェック機能があればいいので、首相を選出する機能だけ残して数十人ぐらいに削減してよい。

 維新の会のような「政策なき政党」が台頭してきたのは、イデオロギーという対立軸がなくなり、無党派層が最大多数派になる時代を反映している。この20年の経験からわれわれが学ぶべきなのは、イギリスを手本にした二大政党制や小選挙区制が破綻したということだ。それに代わるモデルとして何があるのかわからないが、もう一度、政治改革の原点に帰って選挙制度を考え直すべきではないか。

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