中国的歴史認識とポピュリズム
上海の裁判所によると、この差し押さえはもともと2007年に中国の元船会社オーナー家族(以下、中国側船会社)からの訴えにもとづいて行われた裁判で、商船三井に29億円相当の賠償金支払い命令が下りたものが発端だと説明している。判決に対して商船三井側が控訴したものの、2010年に控訴が棄却され、11年に裁判所が「執行通知書」を発行したにも関わらず、支払いが行われておらず、その結果商船三井所有のバルカー船「バオスチール・エモーション」号を差し押さえたとされる。
中国側船会社の訴えとは、同社は1936年に商船三井の前身企業に1年間の契約で2籍の輸送船を賃貸したが、賃貸料が支払われないままに輸送船は商船三井の前身から日本軍に徴用されてその後撃沈されたため、その賃貸料と撃沈された船の経済的補償を求めていた。訴えられた商船三井側は、船が結果的に日本軍に徴用されたことからその求めは「戦時賠償」の範囲にあたり、日中共同声明の第5条「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」によって賠償に応じる必要はないはずという判断を示していた。日本のメディアの論調も基本的に商船三井側の視点に立って報道している。
しかし、日中共同声明には文字通り「戦争賠償」については明記しているが、この裁判で補償を求められているのは1936年に結ばれた賃貸契約の賃貸料支払いである。日中開戦のきっかけとなった盧溝橋事件は1937年。つまり、中国側船会社が求める賃貸料とは「戦前」に発生して支払われるべきものであり、また契約にもとづくならば船は開戦前に中国側船会社に返還されていたはずで、履行されていれば日本軍に徴用されることはなかったことを主張しているのである。
商船三井の前身が借りた船は確かに戦中、日本軍に徴用されて撃沈されたらしいが、つまるところその動きも「中国側船会社−商船三井の前身−日本軍」という流れをたどっており、1936年に船を貸したまま契約上の賃貸料も受け取っていないし、契約自体を反故にされてしまった、つまり戦前に契約を踏み倒されたままの中国側船会社にとっては、戦時中の軍の徴用は違約後のことであり、訴えの対象ではないという判断だ。
繰り返すが、日中共同声明には「戦争賠償の放棄」は謳っているが、今回は民間企業間の戦前における契約踏み倒しがそのまま戦時へと突入したことが問われている。これは相当に微妙な判断を要する事件ではないだろうか。
最初にこの差し押さえニュースを知った時、わたしはかなり驚いたが、さらに驚いたのは日本メディア報道の低調さだった。偶然ニュースが流れた直後数日間日本に滞在していたために日本の報道にもいつもよりも触れていたが、その報道姿勢は数年前のレアアース船拘留に比べると格段におとなしい。そしてどこも日中共同声明の解釈について触れていたものの、戦前の契約違反からそのまま戦時に突入したという微妙な事態についてはあまり真剣に論じる様子もない。
もちろん、戦前の契約とその流れについてはわたしもさっとネットで調べて論じているだけなので間違っているのかもしれない。が、メディアでは実際にその辺の流れを知るはずの歴史関係者に話を聞いたり、業界資料を紐解くような深入りしようという姿勢もない。日本メディアの論調は基本的に、日中共同声明をタテに「賠償請求は放棄したはず」という論ばかりで、一番たくさん目や耳にしたのは「なぜ今になって」「70年以上も前のことじゃないか...」という疑問だった。
なんだか全体的に歯切れが悪いなぁ......と思っていたら、23日になって商船三井側が約40億円相当の供託金を上海の裁判所に支払い、「バオスチール・エモーション」の拘留が解除されたという。商船三井としては、中国の国有鉄鋼企業、宝山鋼鉄に鉄鉱石を運んでいる同船の拘留が続けば、業務に支障をきたし、結果的に宝山鋼鉄側からも訴えられかねないという点を考慮したのだろう。
だが、振り返ってみると、29億円の賠償支払い命令を無視し続けていた商船三井が、中国とのビジネス、それも国有トップ企業の宝山鋼鉄とのビジネスを何もなかったように今日まで続けてこられたというのも、非常に不思議な話だ。これを日本に置き換えて考えてみよう。内容はともあれ、日本の裁判所から命じられた巨額の賠償命令を無視し続ける海外企業が堂々と日本で商売を続けることに違和感はないだろうか? それも日本政府につながる企業がそんな海外企業と商売を続けていたとしたら?
商船三井側は2011年の控訴棄却以来、原告と和解努力をしてきたというが、一旦賠償命令がくだされ、控訴も棄却された上で和解――つまり支払い賠償額の引き下げ――を原告側に持ち込んで、相手が首をタテに振ってくれるだろうか。いや、支払い命令を受けた側が努力しても、原告がその話し合いの席につこうとしなければ、その「努力」とやらも一方通行的な言い訳としか取れないのではないか。
なんとももやもやが残るいきさつばかりが出てくる。少なくともこの事件は、戦前には日本と中国の間にこうした契約違反など力任せの事態があったことを我々に再確認させてくれた。「今後、このような事件が増えるのでは......」という声もあるが、そんなことを心配するのであれば、まず戦前に日本が中国に対してどんな態度をとっていたのかをつぶさに掘り起こす必要があるだろう。戦前の民間商行為においてもきちんとしたものばかりではなかったことがこの事件の詳細が教えてくれた。