「革命家」が息を吹き返す?
日本ではニュースにもあまり上がっていないようだが、先週行われた、習近平国家主席の父、故習仲勲の生誕百年記念活動が中国政治の動きに注目する人たちの話題になっている。
昨年の今頃、習近平ら胡錦濤から政権を引き継ぐとされる新指導者候補たちが「太子党」と呼ばれていたのを覚えているだろうか? 「太子」とは1949年の中華人民共和国建国に関わった「革命第一世代」の子女たちのことだ。ちょうどここ数年、その子女たちがビジネス、政治などの場で頭角を現し始め(もちろん、父母の恩恵に預かった上での「頭角」だが)、そんな人たちをまとめて「太子党」とよぶようになった。別に彼らが「太子党」と自称して政党や派閥など徒党を組んでいるわけではない。
もう一つ「官二代」という言葉もある。こちらは一代目の範囲がちょっと広く、中央から地方に至るまでの官吏のうちある程度の地位についた人たちの二代目を指す。例えば、北京の衛生局長の息子は「官二代」であって「太子党」ではない。「太子党」はあくまでも建国直後から現在までに中央政治のトップを経験した者を親に持つ者を言う言葉だ。
その「太子党」のトップとして初めて中央政治に君臨するのが薄煕来か、習近平かと言われていたわけだが、結果はご存知の通り。薄煕来のドラマチックな失脚とともにとにもかくにも習近平体制が始まって、この後「太子党」話題はしばらく収束するのではないかと思っていたのだが...
そこに先週の「故習仲勲生誕百年記念式典」である。100年どころか、一般に中国の人々が覚えている政治指導者の誕生日は毛沢東が関の山だろう。今年の12月26日はその毛の生誕120周年にあたる。習仲勲は中国建国(=中国共産党にとっては革命、奪権の結果である)後の歴史を知る人なら知らないはずのない名前だが、党内では中央政治局委員止まりで実質的な指導者といえる常務委員入りも果たしておらず、その存在は毛沢東に及ぶべくもない。その彼の生誕記念式典は「親の七光」どころか「子の威光」によるものであることは誰の目にも明らかだった。
現国家主席の親の生誕記念式典なぞ、これまで中国において行われたことがない。今回の記念活動は習仲勲の姿をかたどった記念切手が発行され、そして関連書籍の出版や広東省や陝西省などの習仲勲ゆかりの地での祝賀式典が行われ、国営テレビ中央電視台では六夜連続ドキュメンタリー番組を放送し、10月15日当日は人民大会堂で記念式典が行われ、習一家がそこに集まった。これらの活動において習近平は公開の発言を行わず、家族を代表して母、斉心と弟の習遠平がスピーチを行ったという。
前代未聞の祝賀式典で何が語られるのか、注目が集まった。だが、実際にはそのスピーチ、あるいは出版物や番組で語られる故人の姿は中国の元指導者の一人を描く伝統に違わず、前向きで偉大な父親、指導者像だった。中国の政治事情を知る者ならそこにはそれほど期待も、また意外性もない。だが、やはり「現国家主席の父」の意味は絶大なものがある。いやでも人々の目はそこに集まった。
習仲勲には毛沢東と同世代の指導グループの一員として誰もが知っている「過去」があった。文化大革命時代(文革)の失脚だ。すでに中国の歴史において否定的に語られている文革だが、はっきりと政治の場で持ちだされて語ることは忌避されてきた。それはイコール毛沢東への評価につながってしまうからだ。毛沢東色がかなり薄まった感のあった胡錦濤、温家宝時代でもさすがにそれははばかられたのだから、党総書記就任以降たびたび毛の名前を出している習近平が毛の批判につながるようなことをするとは考えられなかった。
結果から言うと、「うまいことやった」というイメージだ。この「うまい」とは決して好意的に受け取られているという意味ではない。だが、毛沢東との関係をさらりと触れるに止め、逆に毛沢東とともに革命家として人民の側に立ったという形で強調し、毛と習ではなく、習と人民との関係にすり替えることで、「歴史の汚点」を隠し通したのだ。
さらにそこでは、習近平ら兄弟も父が毛沢東一派の迫害を受けている最中に生まれたために子供の頃からつましい生活を迫られたこと、父に厳しく育てられ、「控えめに生きるよう」しつけられたと強調された。習仲勲の伝記には親の威光や影響力を利用して蓄財に走る「官二代」に対する批判もみられたと伝えられている。
確かに1978年に広東省政府党委員会の第二書記として地位を取り戻した習仲勲は当時の指導者鄧小平の下、香港と隣接する同省で第一書記、省長を歴任し、香港との窓口だった深圳を中国初の経済特区とすることに成功、前線に立って「改革開放政策」を推進する立場に立った。今でも広東省は、北京や上海ほど大きくはないが香港に隣接し、省全体の意識は開放的だとされる。今回のキャンペーンではこの「改革の設計師」と言われた鄧小平に並べて習仲勲を「改革の工程師」という位置付けに置いた。もちろん、その、改革と開放の先駆者の遺志は息子である習近平に受け継がれている、という暗示がある。
この習仲勲生誕100年記念は、偶然とはいえ「うまいタイミングだ」という評論家もいる。9月末にライバル薄煕来裁判の判決が下り、11月には習近平の経済政策に注目が集まる第3回中央委員会全体会議(三中全会)が行われる。そして12月には毛沢東の生誕120周年記念なのだ。習近平がいかに、そしてどこまで改革、開放を進めるかに注目が集まっているこの時に、10月15日のこの日を利用して父親の「先駆性」を喧伝、イメージ付けるのはぴったりだった。
一部にはこれを機会に習近平は「毛沢東の『孫』よりも習仲勲の息子であること」を印象づけたいのだ、という声もある。だがこれは下手をすると、中国共産党の開祖毛沢東と現主席の父の地位を取り違えてしまうことにもなり、とても危険な気がする。だが、実際にはこの「毛と習」の関係がモデレートに処理され、毛を否定しなかったために、共産党に熱狂的な忠誠を誓う「毛派」をそれほど大きく怒らせることはないだろう、という見方もある(まぁ、その中には「毛派」はただの投機家だから自分たちの利益が確保されればいいんだよ、という意見もあるのだが)。
一方では習の目的は別のところにあるという説もある。というのも、生誕式典にはトウ小平、劉少奇(元国家主席)、胡耀邦(元共産党総書記)、彭真(元全国人民代表大会常務委員長)、王震(元国家副主席)、楊尚昆(元国家主席)、陳雲(元国務院副総理)、李維漢(元国務院秘書長)らの子女、つまり「太子党」が集まった。習の目的ははこの「太子党」たちとの協力関係を新たに築くものだったのではないか、というのだ。
習はこの新たな協力関係を築くことによって、鄧小平以降、つまり江沢民や胡錦濤らによる政治操作を離脱、「紅二代」と呼ばれる二代目共産党員による政治を確立しようとしているという。つまり、建国に関わったわけでもない江や胡よりも革命純血種の「紅い二代目」たちこそが政権運営にふさわしい、という考え方が今後明らかになっていく可能性があるという声がある。
ならば、革命純血種の末裔たちは何を起こそうとしているのか。習と薄煕来のように相容れない間で闘争が起こるのか、それとも政治だけではなくビジネスの世界まで手を広げた末裔たちで手を組み、新たな政治システムを作ろうというのか。
巷の分析はまちまちでまだよくわからない。ただ、言えるのは少なくとも政治はますます庶民の手の届かない方向へと遠ざかっていくのではないか、という予感だ。
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