一人一人の李旺陽
香港の6月はいつも特殊な空気を帯びてやってくる。中国大陸でもその空気を嗅ぎ取る人もいるが、ほとんどの人がそれを口にすることができないので街の空気の中では薄れてしまっている。だが香港では、1989年6月4日に遠い北京の天安門広場で起こった惨事のことを誰もが嫌でも思い出す。メディアがほっておかないからだ。
今年は4日の月曜日を前にした週末の土曜日にあたる2日、香港では100万戸以上の家庭が加入している香港ケーブルテレビが天安門事件23周年日を記念し、中国湖南省邵陽市出身の民主活動家、李旺陽さんの独占インタビューを放送した。1950年生まれの李さんは今年62歳。だがそのうち22年を獄中で過ごし、昨年5月に釈放されたばかりだ。1980年代に中国全土を席巻した改革開放の渦の中、ガラス工場の労働者だった同氏は地元で民間労働者組織「工人互助会」を作り、組織内通信「資江民報」の設立に関わったという。
そして1989年6月4日、民主化を求める学生や労働者が集まっていた天安門広場に軍隊が突入したという情報を受け、李さんは邵陽で追悼抗議集会を組織。それがもとで逮捕されて懲役13年の判決を受ける。その獄中で激しい虐待と拷問を受け、聴力減退、失明、頸椎、腰椎、心臓など身体に数々の異常を抱えるようになり、治療目的で2000年に釈放された。だが国に対して賠償を求めて病院で抗議の絶食を始め、再び「国家政権転覆扇動罪」で逮捕されて10年の懲役に服した。妹の李旺玲さんもこの時期に外国メディアの取材を受けたことを理由に、3か月間の労働改造所送りになった。
李さんはインタビューの中で、昔からの友人に支えられてゆっくりと歩き、友人が彼の手のひらか大腿の上に書いて伝えたインタビュアーの質問に、しゃがれ声で答えていた。口から見える歯は半分欠けてなく、これも資料によると獄中の拷問の結果だという。彼が獄中で拷問を受けたのはその頑固なまでの民主への希求ゆえといわれ、確かにこのインタビューもはっきりとした口調で「国が早く民主社会化するため、多党制が実現するため、クビを切られようとも後悔はしない」と言い放っていた(香港ケーブルテレビの番組はこちら)。
だが、放送日からわずか4日後、突然その李さんの訃報が香港および海外の民主活動家の中を駆け巡る。同日の早朝、入院先の病院の窓枠に首を吊った姿で発見されたのである。午後には首を吊ったままの遺体にすがって泣いている妹さんの写真もインターネットを通じて流れ、それと同時に病院から連絡を受けたという李さんの周囲から「なぜ連絡を受けた関係者が駆け付けるまで首を吊ったままの遺体がほっておかれたのか」と、明らかに病院関係者が蘇生手段を取ろうとしなかったことに対して疑問の声が上がった。さらにすぐに流れた「自殺」という死因に対しても、「前日には妹の旺玲さんに、『聴力を鍛えるためにラジオを持ってきてくれ』と言ったばかりだ」などの周囲の証言が伝わり始めた。
さらに、李さんは2日のインタビュー放送直後から当地の当局関係者に拘束されていた。前夜の時点では病室にも同室の病人がおり、また複数の当局関係者が入り口ドア付近を固めていたはずなのに、遺体発見後同室者は「昨夜は廊下で寝た」などというこれまた不自然な証言を李さんの妹婿にしたあげく、その後姿を消し、病院側もその行先を明らかにしないなど不可解な状況がますます疑惑を駆り立てた。
その頃から、この不気味な事件が香港でじわじわと人々の口に上り始める。メディアはすぐに現場写真を香港の専門家に検証させ、「首を吊ったヒモの結び方は盲人が一人で結んだとは思えないくらい複雑」「なぜテレビでは他者に支えられてゆるゆると歩いていた李さんがわざわざ窓際まで移動し、脚が地面につく高さで首を吊ったのか」「スリッパも履いたままで、苦しんでもがいた様子がない」「病室内の寝具も乱れたところがなく、首を吊ったヒモはどこから出てきたのか」などの証言を得、ますます李さんの死は「口封じに殺されたのではないか」と疑問視される。
それとほぼ同時進行で現地では前日まで死因の正式な調査を求めていたはずの妹の旺玲さんが「遺体の火葬に同意」し、そのまま当局の手配で検死、火葬が行われたというニュースが流れる。その直後からそれまで香港メディアに向けて情報を発信していた旺玲さん夫婦、李さんの親しい友人たちと連絡が取れなくなり、香港メディアも事態を見守る海外の民主活動家たちも現地の声を拾うことができなくなった。
それと同時に、わたしのフェイスブック上では友人たちがそれらメディアの報道を次々にコピペし、拡散しているのが目立ち始めた。わたしの香港人の友人には毎年6月4日の天安門事件集会に参加し、また7月1日の香港返還記念日には政府に対するデモを呼びかけている者たちが少なからずいる。しかし、今回それと大きく違ったのが、いつもはほとんどそんな話題を流さない著名なミュージシャン、家庭の主婦、学生たち、さらに一部の香港在住の中国系メディアの関係者までもが次々と李旺陽さんの死に疑問の声を上げ始め、記事をアップし、共有し、またコメントを発していたことだ。これは、と思っていたら...
6月10日の日曜日。香港にある中国中央政府弁公室に向けた李旺陽さんの死因調査を求める市民デモに、なんと2万5千人もの人たちが参加したのである。中国中央政府に直接向けたデモとしては、SARS禍の真っ最中に行われた50万人デモ以来、香港では過去2番目の規模となった。
この週は4日の月曜日にすでに恒例の天安門記念集会が行われており、主催者発表で18万人が集まった。日頃忙しい香港人たちが毎年必ずこの日には会場のビクトリア公園に足を運ぶことだけでも驚くべきなのだが、それと同じ週に改めて同弁公室前の道をびっしり埋めるほどの人たちが集まったのは前代未聞と言える(香港紙「明報」のデモの様子を伝える写真集)。
そこで叫ばれたのが、「人人都是李旺陽!」(オレたちはみな、李旺陽だ!)というシュプレヒコールだった。このシュプレヒコールを聞いて、香港人がこの李さんの事件を、民主活動家の死、香港メディアの接触が原因になったかもしれない死、あるいはただの天安門事件の記憶を呼び起こさせる死ととらえているわけではないことが分かった。
「人人都是李旺陽!」
香港の人たちは、李旺陽さんのように、周囲を納得させることのできる理由も証拠も提示ないまま、政府によって「自殺」と断定されたその死を「明日は我が身」、つまりいつか自分の身に起こるかもしれないと感じて立ち上がったのだった。この恐怖感はかつて、1997年の香港返還前に誰もがちらりと心の中で反芻したことがあったはずだが、当時昇り竜状態にあった中国の未来への期待で自ら打ち消した「不安要素」だった。
中国への返還を受け入れた当時の市民の多くはもともと、自分自身あるいはその父母たちが中国から香港に逃げ込んだ人たちである。彼らは1949年の中国共産党政権による中華人民共和国の建国、そして50年代末期の大飢饉、60年代から始まった文化大革命、さらには89年の天安門事件...と、香港が返還される前に香港市民として暮らしていた人たちの多くが、それぞれ当時の残酷な時代を目にし、経験し、命からがら逃げてきた記憶を持っていた。だが、経済成長とともに変化する中国に期待して多くの人たちがそんな記憶を封印して主権返還を受け入れたのである。
それが、今回の李旺陽さんの事件で呼び起こされた。「中国ではいまだに事実が明らかにされることもなく、ひねりつぶされるように人間が消されていく。不満も不平も、そして疑問を呈しても聞き入れられることはないのか」、中国の現状に対するそんな怒りと不安を人々はそこで表したのである。
さらに市民だけではない。中国政府との直接のパイプを持つ全国人民代表大会の香港代表や現香港政府の高官(食物衛生局長の周一嶽氏)も、李さんの「自殺」についての疑惑を口にするようになった。この事件に対する不信感は香港中に蔓延しているといっても過言ではない騒ぎになっている。
中国中央政府も、このムードを無視できないはずだ。来月1日は香港返還15周年に当たり、4代目の香港特別行政区長官の就任式も行われる予定で、胡錦涛国家主席が香港を訪れることになっている。このまま行けば、当日もっと激しい抗議デモが行われることになるだろう。一部ではその人数は5万人という予想もあり、確かに李さんの死因再調査を求めるネット上の署名に参加した人はすでにこの時点で5万人を突破しているのである。
以前ご紹介した、盲目の民主活動家、陳光誠氏の事件、そしてこの李旺陽氏の事件。実際に手を下したのは現地の当局関係者だといわれているが、中央当局は事件が明るみになっても当局者のメンツを慮って思い切った行動を取らず、「間接的責任」を問う声が高まっている。中央政府は今回の胡主席の香港訪問で「経済的手土産」を準備しているといわれるが、それで香港人の不安が収まるのか。
生存の不安を呼び起こされた人たちにいったいどのような対処法を取ればいいのか、今のところ一切コメントしようとしない中央政府がそのツボをつかんでいるようには見えない。
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