コラム

中国人が「アバター」を見られるのは、沖縄の海兵隊のおかげなのか?

2010年02月01日(月)12時53分

 先週行われた鳩山首相の所信表明演説で、沖縄を含むアジア情勢に言及する際に「抑止力」という文言を入れるかどうかが連立与党の間で問題になったそうです。結果的に社民党の福島党首が押し切る形でこの「抑止力」という言葉は削除されました。では、ここで言う「抑止力」とは何なのでしょうか? 同じ週にアメリカのルース駐日大使は「沖縄海兵隊の存在意義」について北朝鮮情勢に対応するためだということを述べています。「抑止力」とはそういう意味なのでしょうか?

 ルース大使の発言は中国に遠慮したフィクションだと思います。北朝鮮の動揺に対して沖縄の海兵隊を急派することは重要ではありません。38度線が動揺した場合は在韓国連軍が韓国軍と共に対応します。北の鴨緑江が動揺した場合は、中国軍が対応するのが当然で、これをアメリカも支持する立場のはずです。北朝鮮の国内が激しく動揺した場合も、アメリカは中国や韓国と協調して対応することになっているようです。また、本当に大量破壊兵器をミサイルに載せて発射しようという危機が現出した場合は、航空兵力での対応が主となり、海兵隊の出る幕はありません。

 沖縄に海兵隊が存在しているのは、あくまで対中国戦略だと思います。具体的には台湾防衛です。中国軍が台湾政府の同意なく台湾に侵攻した場合は、いつでも迅速に海兵隊を上陸させて対応ができる、これがその存在意義です。では、アメリカは台湾の陸上での中国軍との対決を覚悟しているのでしょうか? そうではありません。ここに抑止力というものの本質があります。中国に台湾での地上戦闘を「覚悟させない」のが抑止力の目的で、そのために在沖海兵隊が存在していると言っても過言ではありません。

 中国に覚悟をさせない、そのためには抑止の現実的な力がホンモノでなくてはなりません。ですから、軽空母でのヘリの離発着訓練は継続しなくてはならないし、士気を維持するために疲労した要員は定期的に交替しなくてはなりません。そして新規要員は練度を上げるために離発着訓練は必要であり、訓練によって安全性と抑止力が維持されるのです。

 そんなバカげた政治と軍事の「綱引き」のために危険な訓練が続行されているのか、台湾さえ抵抗を止めれば、そして台湾にアメリカが肩入れするのを止めれば良いではないか、そんな声も出るかもしれません。確かにそうです。ですが、問題は台湾だけではないのです。冷戦構造の中で全く自力で民主主義を実現してきた台湾が北京政府の覇権に飲み込まれるようですと、中国は社会的なソフトランディングができなくなるかもしれません。まるで古代のような統制を維持したまま、巨大な経済を回してゆくというアクロバットが続くのでは困ります。

 そうではなくて、台湾問題が時間をかけてソフトに解決へと向かう、つまり本土の方にも政治的文化的「改革開放」がゆっくりと進む、これが中国にも、アジア全体にも世界経済全体にとっても最適解なのだと思います。今現在、中国の人々が100%の自由を求めては大混乱に陥ります。ですが、せめて『アバター』を観る自由は維持され、そして少しずつ自由な言論や、複数の選択肢を持てるようになる、そうした堅実な変化が必要であり、その狭いゾーンを外れた過度の守旧も過度の急進も破綻につながるのではないでしょうか?

 そうした中国の堅実な変化は、西側の「自由と民主主義へ理解を」というメッセージ、「台湾問題の武力解決は認めない」というメッセージに、ある部分は支えられているのだと思います。沖縄の海兵隊の持っている「抑止力」というのは、そういう意味です。ですから、そのホンネの部分は中国に対してハッキリとは言えないのです。また残念ながら複雑すぎるために、過去の自民党政権は地元に十分に説明ができていませんでした。

 では、そうした「抑止力」も分からない福島党首のような言論には存在意義はないのでしょうか? それも違うと思います。ここまでの狭義の抑止力論議に付随する危険性、つまり「抑止のための軍事力」が本当に発火する危険に対して「この地域における一切の戦闘に反対する」という世論の「抑止力」、更に「前回の大戦のように日本が戦闘の勝敗により倫理的な敗者になるリスクは一切取らない」という「自ら瓶にフタ」をする「抑止力」も、日本の世論に支えられている以上は、広い意味でこの地域の安全保障のコマの1つに他なりません。

 アメリカはそうした全体像の変化を踏まえて、台湾への防衛的兵器の供与に踏み切ったのだと思います。そのアメリカは、日本の「左傾化」を嘆いているのではないと思います。狭義にせよ、広義にせよ「バランス」や「抑止」という語彙の通じない中で、ひたすら結論が出ないこと、実務的な対話が進まないことに苛立っているのだと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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