「セレブの目撃話」に興味ある?
僕が最もよく聞かれる質問は「ニューヨークの暮らしってどう?」というものだ。その次には、たいていこう聞かれる。「で、誰かセレブを見かけた?」
第1の質問はあまりに漠然としていて、どう答えていいか分からない。2番目の質問は具体的だが、そんな話が面白いのかどうか分からない。もっとも多くの人が同じ質問をする----ニューヨーカーも互いに同じことを聞き合う----ということは、きっと読者も知りたいのだろう。僕が出合ったセレブたちを紹介しよう。
「セレブの目撃」にもランクがある。例えば、コンサートでポール・サイモンを見かけたとしても、それほど評価は高くないだろう。コンサートのためにカネを払っているし、同時に2万人が彼を見ている。同様に、本のサイン会の話をしても感心されない。
セントラル・パークでウディ・アレンを見た、ということなら悪くない。ただしアレンは50年以上もニューヨークに住んでいて、「アレンの目撃話」を持っている人はたくさんいる。それよりも、有名人(リーアム・ニーソンとか)が自分の家の近くに住んでいて、よく地元のデリで見かけるなんて話がいい。重要なのは、「さりげなく」話すこと。「そうだね。ときどきリーアムがベーグルを買っているのを見かけるよ」という具合だ(親しげにファーストネームを使うのがコツ)。ちょっとしたおまけ話を付けると盛り上がる。「そうそう、オリーブに100ドルも使っていたよ」
「セレブ目撃」に関しては、僕は幸先のよいスタートを切った。97年に初めてニューヨークを訪れた日に、ミッドタウンでジョン・F・ケネディJr.と妻のキャロリン・ベセットとすれ違った。僕は平静を装い、ニューヨークではこんなことは日常茶飯事なのだろうと思った。一緒に歩いていた同僚は気付かなかったため、どうして教えてくれなかったのかと怒った。
でも、伝える必要はなかった。その10分後、僕らが予約していたレストランで、ケネディJr.夫妻が近くの席に座ることになったからだ。おしゃべりな同僚が「ケネディJr.夫妻を厨房の入り口のすぐ近くに座らせるなんて信じられない。一番悪い席だよ」と大声で話していたそのすぐ後ろにキャロリンが立っていたときは、本当に恥ずかしかった(実際には彼女は聞こえなかったか、聞こえても無視をする気品があった)。
それから次の「目撃」まで12年の間があいた。
2年半前に再びニューヨークに住み始めた当初、僕にもチャンスはあった。ブルックリンでヒース・レジャーの家から5分くらいのところに住んでいたのだ。「時の人」でもある有名人がマンハッタンではなく、ブックリンに住むのは一大事だ。住民たちは、ブルックリンが新たなホットスポットとなり、不動産の価値が上昇し、もっと多くのセレブが移り住むことを期待した。だがレジャーは07年にガールフレンドと別れると、マンハッタンに戻っていった。そして、死んでしまった。いずれにせよ、僕が彼の姿を見かけたことは1度もない。
だがついに、僕にもそのときがやって来た。数週間前、近所のプロスペクト・パークを走っているときのことだ。僕は自分でもなかなかのランナーだと思うが、ある男が僕を追い越し、すぐに姿が見えなくなった。しばらくすると、その男はまた後ろからやってきて、ものすごいスピードで僕を追い越していった。彼の名はマルコム・グラッドウェル。見分けるのは簡単だ。何せ髪型が独特なのだ(1年に1回しか散髪しないにちがいない)。
グラッドウェルはイギリス生まれのカナダ人で、とても興味深い作家だ。ニューヨーカー誌の記者として活躍し、彼が書いた『ティッピング・ポイント』は世界中でベストセラーになった。最新作では100万ドル以上の原稿料を前払いで受け取ったといわれている。
僕の2回のセレブとの遭遇がどちらもジャーナリズムがらみだったとは、なんと奇妙な偶然だろう。グラッドウェルは恐らくニューヨークで最も著名なプリントジャーナリストだ。ケネディJr.も「ジョージ」という雑誌を発行していた。男性向けの政治誌を作ろうという試みは崇高だったものの、成功には至らなかったが(ケネディJr.が自ら切り開いた「雑誌の発行人」という職業ではなく、彼自身が求めたわけではない「ケネディ家のプリンス」として人々に記憶されていることが、僕には悔しい)。
僕自身ジャーナリストとして、他のジャーナリストにはいつも興味を抱いてきた。ケネディJr.とグラッドウェルは、僕がインタビューしてみたいニューヨーカーの筆頭ともいえる。
実は、僕が遭遇したニューヨークのセレブは3人いる。もう1人もジャーナリストのようなものだ。ロンドンのポートベロー・ロードで、「ゴーカー・ドットコム」の創設者ニック・デントンを見かけたのだ。デントンはイギリス人だが、ニューヨークのソーホーに住んでいる。ニュースやゴシップを報じる「ゴーカー」は、今や大成功を収めているサイトだ。
その中にある「ゴーカー・ストーカー」というコーナーでは、人々が街で見かけたセレブをリアルタイムで報告できる。もっとも、僕は読んだことはない。女優のメアリー・ケイト・オルソンがいつどこでコーヒーを飲んでいようが、そんなことはどうでもいい。何しろ僕は、個人的に興味のある人たちに出会う運命の持ち主なのだから!
英王室御用達のイチゴジャムの秘密
以前ベーグルについて書いていたとき、ベーグルに関する記事のある1文が心に引っかかった。
「ベーグルといえばニューヨークだ。パンと都市がこれほど密接に結びついて考えらえれている例は、恐らく他にない」。シリアスイーツ・ドットコムが主催したベーグルコンテストの審査員の1人は、そう述べていた。
僕がそれを面白く思ったのは、ニューヨークはもちろんベーグルの発祥の地ではないから。ベーグルは17世紀にポーランドで生まれたもので、東欧ではユダヤ人と結びついて考えられている。ユダヤ人の移民が後にニューヨークに伝えたのだ。
同様に、ジャムといえばイギリスと思われている。世界1おいしいジャムは、偶然にも僕の両親が住んでいるイギリスのエセックス州で作られている。大げさな、と思うかもしれないが、同州の小さな村ティプトリーにあるウィルキン&サンズのジャム(ティプトリーと呼ばれる)の素晴らしさは、誰もが認めるところだ。
ティプトリーには実に多彩な種類の素晴らしいジャムがあり、しかも普通のジャムと値段があまり変わらない(外国で買うのはかなり高価だが)。世界の「食通」が愛するウィルキン&サンズは王室御用達の店の1つで、04年にはワシントン・ポスト紙の記事にもなった。
数あるティプトリーのジャムの中でも、イギリス人にとって特別なのは「リトル・スカーレット」と呼ばれるストロベリージャムだ。このジャムは、かなり甘い(ただし人工的な甘さではない)。だから、ほんの少しトーストにぬるぐらいがちょうどいい。ジェームズ・ボンドは、アストン・マーチンに乗り、ロレックスの時計をはめ、リトルスカーレットのジャムを食べる(『ロシアより愛をこめて』にそう書いてある)。

イギリスに帰国したときに、ウィルキン&サンズのジャム工場を訪ね(ティプトリーには他にすることはほとんどない)、「リトル・スカーレット」の裏話を聞いて驚いた。リトル・スカーレットには真っ赤な小粒のイチゴの種が使われているのだが、実はこれ、100年以上前にウィルキン氏がアメリカを訪れたときに見つけた野生のイチゴなのだという。このイチゴが素晴らしいジャムになると見抜いてウィルキン氏がイギリスに持ち帰ったのだが、元をただせばアメリカのイチゴだったのだ!
それでもこのジャムは、イギリスの「功績」といえるだろう。僕の知っている限り、リトル・スカーレットの「潜在力」を見抜いた人は他にいない。ましてや、ジャムとして売り出そうなんて。何しろベリー類を育てるのは容易ではない。イチゴは手で摘まなければいけないが、リトル・スカーレットはかなり小粒なため、普通の大きさのイチゴと同じだけの量を摘むのに、人手も時間もかかる。
収穫期は通常よりも短くて3週間。それを過ぎると熟し過ぎてしまう。たくさんは収穫できないから、いつもリトル・スカーレットは品薄状態だ。だからといって、値段を吊り上げるようなことはしないのは見上げたものだ。
言っておくが、僕はウィルキン&サンズとは何の関係もない。僕が言いたいのは、ティプトリーのジャムは人生のささやかな楽しみを与えてくれるということ。それに、電車の駅も止まらないような小さな村から、世界への輸出品が生まれたという点もいい。
今も残る禁酒法の「後遺症」
前回のブログでは禁酒法について書いた。それをきっかけに、あの時代の「後遺症」について考え始め。アメリカではいまだに酒の販売が、よくも悪くも、かなり厳しく規制されている。ときには、ばかばかしく思えるほどだ。
第1に、ふたの空いた酒の容器を持ち運んではいけないという法律があることだ。アメリカの州の大半が、公の場所での飲酒を禁じている。それが大いに納得できる場合もある。例えば、大晦日のタイムズスクエア。あそこに集まる群集が酒を持ち込んだら、とんでもない混乱状態になるだろう。
だが他のケースでは、興ざめというしかない。公園でのピクニックは酒抜きということになる(ただし、夏の野外コンサートではこのルールも骨抜きになる。みんなで渡れば恐くない、というやつだ。全員が規則違反をしていれば、全員に罰金を科すわけにはいかない)。
もっとも、入り口でかばんをチェックされることもある。そのせいで、ある友人の誕生パーティーが台なしになるところだった。公園で開かれる映画の上映会にみんなで酒を持ち寄って祝う予定だったが、会場に着くと入り口で持ち物の検査があった。慌てて別のプランを考えて、みんなに連絡しなければならず、大わらわだった。
昨年夏には、酒をめぐる法律のおかしな適用例が発生した。ブルックリンに住むある男性が、自宅のアパートの入り口の階段で酒を飲んでいて罰金を科されたのだ。
この男性は勇敢にも法廷で争い、自分の居住地内の行為だと主張した。彼は勝訴したが、それは主張が認められたからではなく、相手が裁判の規則に違反したからだった。だから、原則として自宅の入り口で酒を飲むことを禁じる法律は変わっていない。
バーでも酒を外に持ち出すのは違法行為になる。室内では喫煙が禁止されているから、愛煙家にとってはいい迷惑だ。ビールとタバコという古典的名組み合わせは庭つきのバーなど限られた場所でしか許されない。戸外でタバコを吸うときは、飲み物は店内においておかなくてはらない。
それにアメリカで酒を買ったり、飲んだりするときは身分証明書を要求される。イギリスでは18歳になったら酒を買うことができるが、アメリカでは酒が許されるのは21歳から。生年月日が明記された身分証明書がないと酒を出せないという注意書きを掲げているバーが多い(イングランドでは食事時で年長者が一緒などの条件が整えば、16歳でもパブでビールなどの低アルコール飲料を飲むことが許される)。
運転免許証のない僕にとっては迷惑きわまりない話だ。当然のことながら、酒を飲みに出るときにパスポートを持ち歩くのもごめんだ。証明書のない僕は、酒場の経営者の常識に頼っている。たいていの場合、生まれた年を聞かれ、「今回は結構だが、次からは証明書を見せてくれ」と言われるだけで済む。
だがこの夏、あるスーパーはどうしても僕にビールを売ってくれなかった。21歳より41歳にずっと近い年齢だ、と店員に嘆願したのだが。あとで考えてみると、イギリスで最後に酒を売ってもらえなかったのは、25年も前だった。そのときは確かに飲酒年齢に達していなかった。

アメリカの地ビールはおいしい
12月5日は僕にとって記念すべき日だ。1933年のこの日、アメリカの禁酒法が廃止された。この馬鹿げた社会的実験は、闇酒を販売するギャングたちを大儲けさせ、州から酒税の収入を奪い、酒を飲むのが好きな余り、法の遵守や権威を軽んじることになった何万人もの普通の人たちを犯罪者に仕立て上げた。
禁酒法によってもたらされた弊害のほとんどは、比較的すぐに回復した。結局、アルコール類が禁止されたのは14年間という短い期間だけ。それでもアメリカの酒造業者は、少なくとも一世代の間、後退を余儀なくされたことになる。僕がイギリスで育った頃、アメリカのビールはまずいというのが定説だった(実際に僕らがアメリカのビールをどう表現していたかを、ここでは書かない)。
だからアメリカに来たとき、おいしいビールを探せるか不安だった。普通のバーでは、バドワイザーかクアーズ、あるいはハイネケンやカールスバーグ、ギネスなど世界的なブランドしか置いていないのではないか。ギネスばかり飲むことになりそうだ。そう予期していた。
僕が住んでいるブルックリンには禁酒法以前、100以上の醸造所があったという話を読んだ。ほぼ間違いなくアメリカの「ビールの首都」といえるだろう。ブルックリン北部にある「ブルワ-ズ通り」には、数十の醸造所があったそうだ。だが禁酒法によって、すべて消えてしまった。小規模な醸造所がアメリカの多様なビールの歴史を蘇らせたのは、この10年ほどのことだ。
僕の予想がいい意味で裏切られたのは幸いだった。アメリカにもおいしいビールはたくさんあり、ニューヨークの多く----すべてじゃない----のバーにはまともなビールが置いてある。

アメリカのブルワリーの多くは、少数のビールを大量生産するのではなく、実に多様なビールを製造している。あるビールフェスティバルに参加したことがあるが、あまりに種類が多くて、たとえ少量とはいえすべてのビールを試飲するのは不可能だった。どれを飲んだか、どれがおいしかったかを覚えていることですら難しい。
ここでアメリカのおいしいビールを列挙するつもりはないが、僕がいつもニューヨークで飲んでいるのは、ポータービールや白ビールや、ホップの苦味が強いインディア・ペール・エール、ケルシュ風の軽いビールなどだ。
僕がすごいと思う傑出したブルワリーを紹介しよう。まずブルックリン・ブルワリー。僕がブルックリンに住んでいるからひいきにしている訳ではなくて、禁酒法以前のブルックリンの文化を蘇らせようと真摯に取り組んでいるからだ(このブルワリーは、かつての醸造所が集まっていた地区にあり、その一区画の地名を公式に「ブルワーズ通り」と改名させた)。

同じくブルックリンのシックスポイントや、マンハッタンのチェルシーも素晴らしい。かなり実験的なのがデラウェア州のドッグフィッシュ・ヘッドだ(ニューヨーカー誌は「究極のビール作り」と呼んだ)。
今僕の家にあるのは、ウィスコンシン州ミルウォーキーのレークフロント・ブルワリーのビール。7種類買って、今月はこれを楽しんでいる。特に気に入っているのは、イギリスのビールの味がするシカゴのグース・アイランド。オレゴン州のローグやカリフォルニア州のラグニタスは、常に最高の味を保っている。サンフランシスコのアンカーは地ビールを蘇らせたパイオニアであり、その独特の製法はまたとない。
アルコールにはたくさんの種類があるが、僕にとっての「毒薬」はビールだ。人類は5000年以上にわたって、ビールを飲み続けてきた。禁止しようとする愚かな試みにもかかわらず、だ。2年前、僕は禁酒法の廃止から75周年を祝うバッジをもらった。「飲む権利に乾杯」と書いてある。

実際、僕は12月5日に、ビールの多様な種類やクオリティーについて思いをめぐらせた。そして、アメリカのビール文化を蘇らせた人々に敬意を表して、ビールで乾杯した。
パーティーが多過ぎる不思議
「最近の私たちって、パーティーが多過ぎ」。神戸で学生生活を送っていたとき、日本人の友人たちのこの発言が僕たちイギリス人の間で有名になったことがある。ちょうど3カ月間で3つ目のパーティーを計画中だった僕らは、思わず笑ってしまった。何しろイギリスでは、1週間に3つのパーティーに参加するなんてことも普通だったから。
だから、そんな僕がこう発言するのは非常に抵抗があるのだが------「最近のアメリカ人ってパーティーが多過ぎ」。
まず10月には、ハロウィンという「ビッグイベント」がある。お祭り騒ぎはその数週間も前から始まり、人々は玄関前の庭を骸骨やらお化けやら、くり抜いたカボチャやらで念入りに飾り付ける。イギリスにはハロウィンをこうして祝う習慣はない(最近はアメリカ風が流行していると聞くが)から、僕にはこれらすべてがとても奇妙に思える。
ハロウィンはもともと宗教的なお祝いだったのに、そんな要素はもはや見当たらない。人々の祝い方を見て、ハロウィンがそもそも何の祭なのかを言い当てることは難しい。
子供たちは菓子を要求しながら道を練り歩く。お願いしたりねだったりするのではなく、脅して菓子を「巻き上げ」ている。
大人たちは仮装パーティーを開く。これらのパーティーはどういうわけか性的な要素に満ちている。男性は売春宿の亭主、女性は売春婦さながらに仮装する(『バットマン』シリーズのキャットウーマンそっくりに仮装したものすごく魅力的な女性の姿を忘れられない)。グリニッチビレッジで行われる仮装パレードは、とても凝っていて独創的なコスチュームで有名だが、やはり性的な要素が強い。ニューヨークのいたるところにあるコスチューム店の売り上げの90%がハロウィン前の1週間に集中していると、僕はにらんでいる。

ハロウィンのお祭り騒ぎが過ぎ去ると、今度は感謝祭という、これまた「ビッグイベント」が迫ってくる(11月の第4木曜日)。感謝祭はハロウィンほど社交的な催しではないが、この時期は帰省のピーク。ちょうど日本のお盆のように、人々が故郷で家族と過ごすために都心を脱出する(この混乱ぶりをテーマにした『大災難P.T.A.』という映画まである)。
この伝統も、ある意味で奇妙だ。感謝祭はキリスト教の発祥前のヨーロッパで行われていた収穫感謝祭に由来する。だが今の感謝祭は愛国的なお祭りだ。イギリスからアメリカに渡った入植者たちがプリマス植民地で初めての収穫を祝って行われた祝宴が、アメリカの感謝祭の起源とされているからだろう。
現在の感謝祭に宗教色がないことは、入植者たちがとても信心深くて、「感謝」を神に捧げるために行った祭事だったことを考えるとなんだか不思議だ。今の感謝祭は、家族が集まり、七面鳥をはじめとする大量の料理を食べる行事でしかない(入植者たちの感謝祭では七面鳥は出なかったというのに、なぜ七面鳥なのだろう)。
けれど僕が最も理解しがたいのは、アメリカ人が七面鳥中心の家族イベントを11月末に行って、その1カ月後にまたも七面鳥の「ビッグイベント」であるクリスマスを祝うことだ。感謝祭が終わった翌日にはもう、街中の店にクリスマスソングが鳴り響く。
僕にとって昔からクリスマスは特別なイベントだった。1年に1度しかなく、アメリカとは違って、似たような行事は他になくて、1年で最も素晴らしい時間だったから。

