コラム

インフルエンザと排外主義

2009年05月13日(水)22時12分

 新型インフルエンザ発症で世間が大騒ぎしていたゴールデンウィークの真っ最中、ワシントンに行ってきた。どこの大学でも「不要不急の出張は控えよ」と、お触れが出ていたが、どこまで厳密に対応するかは大学それぞれで濃淡があり、厳しいところでは帰国後何日間も自宅待機を命じられた大学もあったようだ。

 一方、日本のパニック的対応と対照的だったのが、米国での危機感のなさである。5月13日現在で全土で感染者3000人を超え、ワシントンでも1人死者を出しているというのに、街中でマスク姿は全くといっていいほど見ない。帰途の飛行機に乗り込んで始めて、日本のムードに気が引けてあわててマスクを取り出した程度だ。日本を発つ時には、タクシーの運転手に行き先を聞かれて、つい正直に「米国」と言えない空気に包まれた。

 疫病への懸念が心理的パニックを起こすことは容易に想像がつくが、恐ろしいのはそれが特定の社会集団に対する理不尽な差別や過剰防衛を生みがちなことだ。エジプトで発症例が出る前から豚を大量に殺処分にしたことの問題が大きく取り上げられたが、これは豚飼育に携わっているのが主としてコプト教徒というキリスト教徒で、宗教的マイノリティに対する差別につながるのでは、と懸念されたためだ。豚を不浄な動物としてイスラーム教が食肉を禁じてきたことは、周知のこと。「コーランは正しかったことの証明だ」と自画自賛する言説も見られる。

 そう考えれば、イスラーム教徒の多い国で感染が少ないのも納得できる、と思われるかもしれない。そもそも豚がいない社会で豚インフルエンザが流行るはずがない、という自負が、イスラーム諸国ではあるかもしれない。しかし本当に発症しても感染したといえない空気があるからではないか、とも考えられる。「豚」という名がついたことで、罹患の有無が信仰心の有無とみなされてしまうからだ。実際、感染者1人が確認されたイスラエルでは、保健省高官が「イスラーム教徒、ユダヤ教徒にとって不名誉な名前」として「メキシコ・インフルエンザと改名する」、と発表した。忘れられがちだが、ユダヤ教もまた豚の食肉を禁じている。

 いずれにしても、自分たちの社会にありえない、と思うものからの脅威には、社会は過剰に情緒的に反応する。「豚」や「ウイルス」だけではない。「テロ」もまた外国からもたらされると考えれば、外国人一般への排外的な措置が取られがちだ。外国からの脅威が忍び込むことに注意を払うことも大事だろうが、グローバル化された世界では防ぎきれない脅威にどう冷静に対応し、どう飼いならすかを考えることも大事ではないだろうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

イスラエルがイランに攻撃か、規模限定的 イランは報

ビジネス

米中堅銀、年内の業績振るわず 利払い増が圧迫=アナ

ビジネス

FRB、現行政策「適切」 物価巡る進展は停滞=シカ

ビジネス

英インフレ、今後3年間で目標2%に向け推移=ラムス
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負ける」と中国政府の公式見解に反する驚きの論考を英誌に寄稿

  • 4

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 5

    「韓国少子化のなぜ?」失業率2.7%、ジニ係数は0.32…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 8

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 9

    毎日どこで何してる? 首輪のカメラが記録した猫目…

  • 10

    便利なキャッシュレス社会で、忘れられていること

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人機やミサイルとイスラエルの「アイアンドーム」が乱れ飛んだ中東の夜間映像

  • 4

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 7

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 8

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 9

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 10

    大半がクリミアから撤退か...衛星写真が示す、ロシア…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story