椅子表地はヴィンヤード形式にちなんでワインレッドのぶどう柄。オーストリアのバックハウゼン社製。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
中編:「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは? から続く
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
田所 「失われた何十年」のその次が立派な良い時代になるかどうかは分かりませんが、歴史がもう1つ展開し始めたというのが、われわれ国際政治学者の一般的な認識です。
問題は中国です。少し前に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版)(1)という面白い本がありました。中国論のようでありつつも、人類全体が直面している問題を提起しています。
中国は、極めて抑圧的だけれども、デジタル全体主義を過去2、30年間、少なくとも現段階まではものすごくうまくやってしまった、と。私はいずれ破綻するとは思うのですが、あのような形で世界を合理化していく共産党の統治が成功するとオルタナティブな世界像が今の時代に再びワーッと出てきてしまう。
中国についてもう1つ言うと、今私が教鞭を執っている大学に来ている途上国からの学生は、中国が好きです。「中国みたいになれたらいい」と言います。
「どうやって自国が豊かになるか」「どうやって自国の軍隊をもっと強くするか」ということが何より大事なら、「欧米のように "民主主義だ、人権だ" とがたがたうるさいことを言うことなく、ポンといろいろなものをつくってくれて、それでGDPが増えるならいい」というのが、グローバルサウスのエリートたちの世界観です。
三浦 ある種、階級社会を自明とするような世界観ですね。
田所 彼らのルサンチマンは判る部分もありますが、フランシス・フクヤマではないけれど、イデオロギーが終焉してしまって、保守二党論が語られる一方で、共産党一党独裁の下で豊かさが実現された時代に、孤独な個人はどうやっていくのかという、別の課題が、今の中国の姿を見ていると強く問われているように、私には思えますね。
片山 米ソの冷戦時代とは違う選択の時代に「人間はこれからどうなっていくのか」というとき、文明観、人間観も含めて人間中心主義で考え、最大限の自由を尊重するという路線と、自由を我慢できる中での自己実現をよしとする路線とがありますね。
こういう路線を改めて見直すと、「内なる自由」を保てるなら、余計なことは言わず捕まらないようにすればいいじゃないか、捕まるやつはバカだ、みたいなことになって、中国的なものを許容することになる。なぜ香港でわざわざ面倒な運動をして亡命するようなことをするのだ。バカじゃないのかと。
新しい秩序優位における「内面の自由」をよしとする考えですが、「内面が自由だから何をしてもいい、政治的に社会的に発言してもいい」というかたちの自由ではなく、「内面の精神生活だけが自由だ」と翻訳するわけです。
「内も外も自由だ、政治も文化も経済活動も束縛なしだ」という自由主義と資本主義の組み合わせの中で、実際に経済的パイがどんどん増えて、みんなにお金が回れば、それは幸福でしょう。
でも福祉はもたない、税の再分配はうまくいかない、貧富の差が開くということでは、自由主義陣営の自由は噓っぽくなってくる。自由を我慢しても我慢しなくても結果として大差ないじゃないかと。経済的自由がなければ政治的にも自由がなくては回らず、複数政党制になるはずだという当たり前が通らない。
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