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『アステイオン』100号の特集「「言論のアリーナ」としての試み」をテーマに行われた、小川さやか・立命館大学教授、ライターのトイアンナ氏、鷲田清一・大阪大学名誉教授、田所昌幸・国際大学特任教授による座談会より。
田所 1986年に創刊された『アステイオン』は、100号を迎えました。
そこで『アステイオン』の存在意義と、創刊からの38年という、この時代について改めて議論したいと思い、世代の異なる3名の執筆者にご登壇いただきました。
まずはどのようなことを考えながら執筆されたかについてお話しいただけますでしょうか。創刊時から『アステイオン』に関わられてきた鷲田さんは、いかがでしょうか。
鷲田 今号のテーマが「『言論のアリーナ』としての試み」ということで、『アステイオン』の創刊者たちが抱いていた思いに注目し、この雑誌が何を目指してきたのかを考えました。
山崎正和さんの論考を読み返すと、学問と評論、そしてジャーナリズムの乖離に対して強い危機感をお持ちだったことが感じ取れます。
評論は「日付のある思想」、学問は「日付のない思想」。その両者をダイナミックに往還できることが知性であると山崎さんは考えておられました。
そこで執筆者同士は当然ながら、また執筆者自身もこの「日付のある思想」と「日付のない思想」の中で格闘する「言論のアリーナ」を『アステイオン』は目指してきました。
しかし、今やアカデミズムもジャーナリズムも状況がさらに悪くなってしまった...という厳しさも感じます。
田所 物心ついた頃にはすでに『アステイオン』があり、その後、執筆者としてご参加いただいた世代の小川さんは、いかがでしょうか?
小川 私は95号の「アカデミック・ジャーナリズム」特集の鼎談に参加したので、今回はそれを振り返りながら執筆しました。
アカデミズムとジャーナリズムは、しばしば水と油のように扱われています。しかし、レヴィ・ストロースの著作など、文化人類学の古典はノンフィクションやルポルタージュとみなされることもあります。ですから、両者は本当に違うものなのかということを95号では考えました。とくにフィールドワークなどの「臨床知」と書物から得られる「専門知」のせめぎ合いから、両者の共通点を見出す可能性を議論しました。
しかし、その後、生成AIやSNSに私たちの「臨床知」が乗っ取られるという全く別の軸が出てきました。ですから今回は、95号の鼎談の続編として「臨床知でテクノロジーを飼いならす」を書き、テクノロジーを活用した執筆や調査(取材)において、臨床知で専門知を乗り越える有効性を今一度考え直すことで、その接点を改めて浮かび上がらせることを試みました。
田所 『アステイオン』が創刊された1986年には、まだ生まれていない世代も増えています。その代表としてトイアンナさんには、この38年を逆投射して、創刊時期の数号を読んでもらった読後感を執筆いただきました。今回、改めてどのような印象を持ちましたでしょうか。
vol.100
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